「患者の弁護士」。精神科医中井久夫をこの本の中でもっともよく表現する言葉がこれでしょう。これは、フロイトの言葉で、中井が何度も引用し、本書の著者斎藤環も、中井が「患者の弁護士」であったと評しています。
これは、本書の表紙では「病を治そうとするのではない、患者の心に寄り添う」と言い換えられています。
さらには、本文でも、「患者ができるだけ回復の過程を意識できるような治療を行うべきだ、という意識は中井にもあり」(p.30)とか、「中井久夫は、患者の尊厳を徹底して尊重することがそのまま治療やケアにつながることを、一貫して主張してきました」(p.33)とかいうように展開されています。
それは、具体的には、たとえばどういうことでしょうか。
「たとえば、言葉のやり取りをすると、私たちはどうしても因果関係を考えてしまいますが、患者に「なぜ」「どうして」と因果関係を尋ねる行為は、妄想の生成に手を貸してしまうかもしれないと中井は指摘します」(p.30)。
つまり、私たちは自分の思考の範疇を満たそうと「なぜ」「どうして」と因果関係を尋ねてしまいがちなのですが、患者はそれとは別種の範疇にあるのかも知れず、そこにこのように問い詰められると、因果関係の妄想を生み出させてしまうことになりかねない、それでは、患者の立場にはなっていないというのです。
「『治療文化論』は、DSM(「精神疾患の診断と統計のためのマニュアル」)のように普遍化を志向する強大な動きに対する中井なりの抵抗として書かれたのではなかったのか」(p.68)。
DSMによる診断とは、患者をそのマニュアルのどこかに位置付けることです。つまり、苦しむ人一人一人より先に、疾患の分類表があり、その枠に人を押し込もうとするのです。けれども、中井はそれに抗っている、分類表よりさきに人間がいると中井は主張している、と、斎藤は言うのです。
中井は戦争についても警告を発しています。
「人間が端的に求めるものは「平和」よりも「安全保障感」である・・・安全への脅威はその気になって探せば必ず見つかる」(p.113)。
「一般には戦争には自己収束性がない。戦争は自分の後始末ができないのである」(p.114)。
このふたつは、中井自身の著作からの引用だが、まさに、今の日本とロシアにあてはまるのではないでしょうか。