金子みすゞの詩は美しく癒される。彼女の詩は目に見えない世界をも詠んでいる。その意味で宗教的である。けれども、窪寺さんは彼女の宗教性についてこう述べる。
「宗教の機能を認知機能・思考機能・信ずる機能と三分類した。その場合、彼女は認知機能は優れているが、思考・信じる機能がほとんど働いていない。そのため困難が襲ってきても宗教が生きる力となってこない」(p.45)。
つまり、みすゞは、神や目に見えない世界を感じ表現していたが、その神を信じて、委ねて、困難をなんとか乗り切ろうとする希望は持っていなかった、それゆえに、自死に至った、と著者は言うのだ。
「今日多くの人が彼女の作品に慰められるのは、異常なほどの繊細さと、そこからくる弱い者への優しい眼差しにあったのではないか。だが、その優しさや思いやりの感性は繊細で非常に脆弱なもので、人への共感的な力にはなったが、彼女自身を支える力にはならなかった。そこには精神病理学的理由があったのかもしれない」(p.38)。
みすゞの詩は読む人を癒す。しかし、彼女自身を癒さなかったのだと。
「「スピリチュアリティ」はいのちの危機(死、喪失)で顕著に覚醒し、生命維持のために癒しの機能として働く」(p.48)。
ということは、著者は、みすゞにはこのような機能が働かなかった、と窪寺さんは言うのだろう。
「彼女の作品では、仏に救いを求めるみすゞの姿は見えてこない」(p.90)。
「彼女は森羅万象に仏の心や姿を見て取る認識力に非常に優れている。しかし、認識した仏と彼女の苦難を関わらせて宗教的に思考する姿があってもよいが、その姿が見えてこない」(p.92)。
「仏の存在、仏の生命、仏の意志が彼女の中に働いていなかったのである」(p.94)。
ぼくはキリスト教徒であるが、みすゞと同じように、目に見えない神を認識するが、それに委ねる心が強いわけではない。神がともにいる、神が無償で愛してくれる、という聖書のメッセージは美しいと思うが、それを信じる精神力によって、困難を乗り越えてきたわけでもない。
ぼくには、死が訪れなかっただけである。今のところ、ガンにも見舞われていないのと同じである。自死の理由を、彼女には神仏を信頼するスピリチュアリティがなかったから、とするのは、酷ではないか。
みすゞに「おとむらいの日」という詩がある。
お花や旗でかざられた
よそのとむらい見るたびに
うちにもあればいいのにと
こないだまでは思ってた。
だけども、きょうはつまらない
人は多ぜいいるけれど
だれも相手にならないし
都(ミヤコ)から来た叔母さまは
だまって涙をためてるし
だれも叱りはしないけど
なんだか私は怖かった。
窪寺さんはこう記す。「この作品が幼い子の気持ちで創られたとしても、自分の家に死者が出ることを期待することは異常である」(p.132)。
幼い子は死者が出ることを望んでいるのではない。うちも「お花や旗でかざられ」ると良いなと思ったのである。葬式の意味を知らなかったのだ。あるいは、大人が葬式の時、ひさしぶりにいろいろな人びとが集まってにぎやかな姿を観ていたのだ。
「弔いに来た人は自分に関心を示してくれないことを「怖かった」と表現している」(p.134)。
そうではなかろう。とむらいはにぎやかなものだ、うちにもあればよい、と思っていたのに、じっさいにそうなってみると、それは死という悲しく怖い出来事だったと知ったことを「なんだか私は怖かった」と表現しているのだろう。