477 「世界の根源のメディアにされた画家」 ・・・「ゴッホと〈聖なるもの〉」(正田倫顕、新教出版社、2017年)

477 「世界の根源のメディアにされた画家」

 

ゴッホと〈聖なるもの〉」(正田倫顕、新教出版社、2017年)

 

 ゴッホの「絵画には自己の内にも外にも位置づけられない〈聖なるもの〉が横溢していた。教会、イエス、太陽を貫く共通のリアリティはヌーメンであったのだ」(p.177)。

 ヌーメン numenとは何か。一般的には(何かに宿っている)「神霊」「霊力」などと訳されるようだが、本書では、題名にある「聖なるもの」と同義語として使われている。そして、頁によって、「(芸術家より)もっと大きな生命力」「生命の奔流」「生命の根源」

「人間を根本から生かしている力」「最深・最奥でうごめく力」というように多様に述べられている。

 

 ゴッホ自身はこう記している。「われわれが生きているのなら、そのことには驚くべき何かがあるのだ。それを神と呼ぼうと、人間の本性と呼ぼうと、何と言おうと構わない。しかしぼくには一つの体系の中で定義できない何かしらなのだ。たとえそれがきわめて生き生きしていて、きわめてありありとしていても、そうなのだ」(p.111)。

 ゴッホは教会やイエスや太陽の中にも一時期これを見た。しかし、「一つの体系の中で定義できない何かしら」であるから、教会やイエスや太陽によってそれを描き切ることはできない。ましてや、教会は形骸化しているのだった。ゴッホは教会でもイエスでも太陽でもないものにそれを見、描き始めた。

 けれども、ぼくたちは逆の道も辿れないだろうか。ゴッホが見た「聖なるもの」「きわめて生き生きしていて、きわめてありありしていた」何かを、教会やイエスの中に再発見することはできないだろうか。

 本書では、ゴッホの書いた言葉に頼らず、絵そのものを眺めることで、深い理解に辿り着いている。ゴッホ自身が言葉にしなかった、あるいは、無意識に画いた「聖なるもの」を丁寧に鑑賞している。

 では、ゴッホは生き生きと幸せに生きたのか。いや、彼は不遇であり、報いられず、心はつねに嵐に見舞われ、頭にはつねに叫びがあった。彼は死んだ。

 では「聖なるもの」は何をもたらしたのか。

 

 著者は言う。「少なくともゴッホの意識では、死が重大な主題として取り上げられていたのであった。それにも拘わらず、万物にはいのちが充溢している。生と死の観念的な二項対立は昇華され、問題にならなくなっている。モチーフとしての対立を無化するように、死の只中にも生があふれているのだ。いわば人間にとって最大の否定的経験である死さえもが、絶対的ないのちに呑み込まれ、一元化されている。ここには非合理なまでの絶対肯定がある」(p.132)。

 「生と死の観念的な二項対立の昇華」「死さえも絶対的ないのちに呑み込まれる」。このようなことは、わたしたちの通常の経験では不可能である。けれども、それをちらっとでも見た人の中には、詩、宗教、音楽、そして、絵画によって、表現する人がいるのだ。いや、「聖なるもの」「根源」が自身を表現する器にされる人がいるのだ。

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