453 「死を死ねなかった死者に生かされる」   「原民喜 詩と愛と孤独の肖像」(梯久美子、岩波新書、2018年)

 原民喜には「夏の花」という小説がある。原子爆弾が投下された広島を書いたものだ。本書は、その原の、梯による評伝だ。

 「原は自分を、死者たちによって生かされている人間だと考えていた」(p.14)。

 死者とは誰か。

 「愛する死者をいわば“聖別”することを生涯を通じて行ったのが原という作家である、それは、父と姉、のちには妻という、かけがえのない愛情の対象を」(p.71)。

 原爆で殺された人びとはどうだったのか。「死にゆく妻を、原は傍らで見守ることができたのだ。/だが広島の死者たちはそうではなかった」(p.185)と評者は書いている。原自身も「このやうに慌しい無造作な死が『死』と云えるだろうか」(同)と記している。

 広島の死は死とも言えないほどの死、死の死だったのだ。

 しかし、原は「鎮魂歌」の中で言っている。

 「僕にはある。僕にはある。僕にはまだ嘆きがあるのだ。僕にはある。僕にはある一つの嘆きがある。僕にはある。僕にはある。僕には無数の嘆きがある。/一つの嘆きは無数の嘆きと結びつく。無数の嘆きは一つの嘆きと鳴りひびく」(p.230)。

 家族の死者は広島の死者と結びつき、一つの嘆きとなった。

 ぼくは3・11以降、若松英輔に促されて、死者を想うようになった。この本には彼の名前は出てこない。けれども、若松とともに井上洋治神父門下にあった遠藤周作は、原民喜の若い友人であった。遠藤宛の原の遺書は留学先のフランスにまで郵送された。

 これはたんに慶應義塾三田文学つながりだけではなかろう。原も井上も遠藤も死者だ。けれども、彼らはたしかにぼくらを生かしている。死を死ぬこともできなった、何億もの死者とともに。

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