たとえ話、神の国、食卓、最後の晩餐、死、復活という項目で、福音書に書かれたイエス像を概観、いや、かなり専門的に論述しています。聖書学の知識がない一般読者やリスナー(ラジオ「宗教の時間」のテキスト!)には、相当「意外」ではないでしょうか。
まず、神に対して善いことをしたり良い信仰を持ったりした人が現世で幸せだったり、死後天国に行ったりする、とは、イエスは考えていなかったろう、という著者の解釈を「意外」に感じる読者がいるかもしれません。
マルコ4章の「種蒔く人」のたとえ話でも、「種の結実というイメージは、応報倫理によって人間論化されません」(p.26)。翻訳すると、「良いことをした人の人生が豊かな身を結ぶということをこのたとえ話は言っているのではありません」とでもなりましょうか。
巻末でも「神が宥和のための犠牲をイエスないし人間に要求するという・・・論理は・・・見当たりません。神は、神と人間の間の距離を自ら乗り越えて、人を救済するためのイニシアティヴを発揮する存在としてイメージされます」(p.188)。神は救済の条件を求めないのです。
つぎに、マルコ12章の「葡萄園の悪しき農夫たち」と呼ばれるイエスのたとえの解釈も「意外」です。
ここの箇所は、ぼくを含む善良なキリスト教徒たちは「神が送った御子イエス・キリストを、人々は(十字架で)殺して、神に成り代わろうとした」などと読みがちだからです。しかし、廣石さんは「反逆的にふるまう奴隷たちが相続人になるという独特の演出は、社会的・宗教的な無資格者が『神の王国』の主役になるという、イエスの宣教の特徴によく符合します」(p.37)と評しています。
それから、ヨハネによる福音書の記事の方が史実に近い場合もある、という指摘も「意外」でした。そんなことは、聖書学の授業をしっかり聞いたり、本をしっかり読んだりしていれば、常識かもしれませんが、なまかじりで終わったぼくのような者は、マルコが史実に近くてヨハネからは史実は汲み取れない、などと思ってしまっているのです。
マルコは最後の晩餐を過越の食事としますが、ヨハネはその前日の食事として物語ります。ヨハネの方が史実であろうと、著者は(著者以外の多くの学者も・・・)指摘します。その後につづくイエスの逮捕から処刑までの流れも、ヨハネの方が史実に近く、「マルコの伝える最高法院による裁判は、歴史的には存在しませんでした」(p.109)という見解が示されています。
最後に、イエスの復活についての廣石さんの論も「意外」かも知れません。それによれば、弟子たちはイエスの復活を予期していませんでした。新約聖書の福音書にも、イエスの復活する様子の具体的な描写はありません。ただ、弟子たちが、イエスの死後、イエスを見た、ということだけです。
著者はこの経験は否定しません。「イエスの死後に生きている彼を『見る』とは、強烈な幻視体験であったことでしょう」(p.158)。つまり、復活は、弟子たちの想像力の物語的産物ではないと。幻視であろうと、弟子たちは、死んだイエスが生きているのを見た、と。
死んだはずのイエスが生きているのを見た。そこから、「神がイエスを復活させた」という推論がなされ、それが、復活告白となったと。
福音書の「音」は知らせ、ニュース、News(新しいこと)のことです。これらの「意外な」新しいことを楽しめる方には、おもしろい一冊でしょう。