聖書やキリスト教に向けられる、向けられた、あるいは、向けられそうな疑問に、著者は、理性、論理、思索によって、回答しています。
それを50回繰り返す中で、浮かび上がってくる、あるいは、基調となるメッセージは、「神はわたしを、あなたを、すべての人を無条件に愛している」ということです。あくまでぼくの感想ですが。
ぼくもこのメッセージだけは信じています。というか、このメッセージにこそ、ぼくの心、たましい、存在は満足しています。救われています。
「新約聖書には「神は愛だからです」と書いた一節があります。神が愛であり、人間が「神のかたち」に造られているのなら、人間は愛の代行ができるかもしれません」(p.19)。
「人は愛し愛されることによって救われるように造られています」(同)。
「人間によって行われる神の業、すなわち愛し愛されるということ」(同)。
「神は愛だからです」は新約聖書の「ヨハネの手紙一」の4:8にありますが、著者は、これを繰り返し引用しています。それは、「神は愛」という表現は、神を固定的、端末的、実体というよりも、関係的なつながり、エネルギーとして言い表しているからかもしれないな、と思いました。
「何度も述べたように、聖書には「神は愛である」と書いてありますので、「神の支配」とは「愛の支配」と言い換えてもいいでしょう」(p.174)。
「神の支配」はイエスが言ったことであり、「神は愛である」はヨハネの手紙の著者の表現ですが、文献学者とは違って、牧師はこういう信仰的なインスピレーションを発揮できます。ぼくも、神の支配とは、神の愛がみなぎっている目に見えない現実のことだと思います。
「聖書には「真理はあなたがたを自由にする(解放する)」という言葉があります。「真理」とは「本当のこと」という意味です。世の中で一番本当のこととは、神が人間を心底から愛しているということです。神の愛は無条件の愛です。つまり、どんな人間であっても、またどんな振る舞いをしたとしても、その人がそこに存在している限り、そのまま大切な存在であるということです」(p.62)。
この本は不信仰だという非難があるそうですが、「神の愛は無条件の愛です」という言葉が信仰でなくて何でしょうか。
聖書やキリスト教を、削りに削って、あるいは、煮詰めに煮詰めて、「神の愛は無条件の愛です」という結晶に著者は辿り着いているのだと思います。そして、不信仰だと非難を受けるような記述も、じつは、もっとも弱いもの、もっとも傷ついた者を愛するという、先に引用した神の代行行為ではないでしょうか。
「人間が互いにわかりあえるというのは幻想です。そういうものだと思って、あきらめておかないと、争いは終わりません」(p.56)。
「非暴力といっても、相手からは暴力を受けます」(p94)。
著者は、言葉においても、大きな暴力を受けて来たのではないか、と思います。それでも、神の愛は無条件の愛、自分もその愛の中にあると信じ、(ときには、感覚的には、疑い)、生き延びて来られたのではないか、と思いました。あくまで、誤読ノートです。