本書によれば「スピノザは神を自然と同一視しました」(p.23)。けれども、この場合の自然とは「世界全体」のことです。
「神は自然であるだけでなく、「実体 substantia」とも呼ばれます・・・実体とは実際に存在しているもののことです。スピノザが神は実体であると言う場合、これは、神が唯一の実体であり、神だけが実際に存在しているということを意味しています」(p.56)。
「神を無限に広がる一枚のシーツのようなものにたとえれば分かりやすいかもしれません。シーツに皺が寄ると、さまざまな形や模様ができますが、それが変状としての個物です。シーツを引っぱると皺は消え、また元の広がりに戻りますが、シーツは消えません」(同)。
「個物は神が存在する仕方であり、その存在の様式なのです。これこそ、個体が様態と呼ばれるゆえんです」(p.57)。
世界が神である、という考え方は奇妙に思えるかもしれませんが、こういうふうに考えられないでしょうか。神は、人間にとって、信頼し自分を委ねる存在です。世界も、また、人間にとって、信頼し委ねるべき存在ではないでしょうか。
スピノザのこのような神観は、人格神のキリスト教とはまた別の魅力を持っていますが、スピノザの倫理観にも興味深いものがあります。
「うまく喜びをもたらす組み合わせの中にいることこそが、よく生きるコツだということになります。世間には必ずネガティヴな刺激があります。これはスピノザの非常に強い確信でもありました。それによって自分をダメにされないためには、実験を重ねながら、うまく自分に合う組み合わせを見つけることが重要になります」(p.46)。
「スピノザは確かに契約説の立場を取っていますが、一度きりの契約という考え方をしません。毎日、他人に害を及ぼすことがないよう、他人の権利を尊重しながら生活すること、それこそが契約だというのです。いつかどこかで一度契約した内容に従うのではなく、一つの国家の中で互いに尊重し合って生活していく。それによって契約はいわば、毎時、毎日、更新され、確認されている。私はいわゆる契約説が一回性の契約説であるとしたら、スピノザのそれは反復的契約制であろうと論じたことがあります」(p.64)。
「互いに尊重し合う」ことは「うまく自分に合う組み合わせを見つける」ことでもありましょう。うまくいく相手とは近づきあってともに生きる、うまくいかない相手とは距離をおいくことでたがいに生存する(脅かさない)ことが、互いに尊重し合うことではないでしょうか。それを日々あらたに確認することが反復的契約ではないでしょうか。
最後に「自由」について。「必然性に従うことが自由だといっている・・・自らの必然性によって存在したり、行為したりする時にこそ、その人は自由だと言うのです。ここで言われている必然性を、その人に与えられた身体や精神の条件であると考えれば、スピノザの言わんとするところが見えてきます・・・魚は水の中で泳いで生きるという必然性にうまく従って生きることができた時にこそ、その力を余すところなく発揮できる。魚を陸にあげれば死んでしまいます。人間の身体や精神にも、これと同じような必然性があるということです」(p.68)。
魚にとって「水の中」は自らを委ねる世界であり、スピノザ流に言えば「自然」であり「神」でありましょう。そして、「水」が魚にとって「必然」であれば、自分をとりまく世界、神という必然に従う、いや、委ねることが自由ではないでしょうか。