651「お坊さんと牧師さんの共通点、相違点」・・・「相互救済物語」(武田定光、2021年、因速寺出版)

 

 

 東京都江東区にある真宗大谷派の因速寺の武田住職の講演を起こしたものです。

 

以前に読んだ本では、キリスト教との共通点を感じ、また、一宗教にこだわらないお考えにひじょうに共鳴しました。

 

今回は、これらに加えて、キリスト教との相違点も学びました。

 

「どうも、「救いというのは、いまではなくて将来に与えられるんじゃないか」、「向こうからやって来るんじゃないか」、「向こうに往ったらいいものがあるんじゃないか」と考えてしまう。つまり、〈いま〉という時間が抜けて、将来に何ごとかを待望することになってしまうのです」(p.31)。

 

社会主義親鸞の教学分類に入れ込めば、「第十九願」という世界です。要するに「あっちに往ったらよい世界がある」、「今は駄目だけれども、やがて社会を改善し改良し、そうなったら素晴らしい世界が来るんだ」という考え方です。これはある種の新興宗教社会主義と一緒の形態ですね。日蓮もそうですね・・・だからそれを突き詰めれば、今は駄目だということだから、〈いま〉の救いが成り立ちません」(p.32)。

 

キリスト教や聖書の中にも、今ではなくこれからの救い、という信仰が多々見られるのですが、どうじに、今ここの救い、という考え方もあります。

 

「「なぜ生きるのか」と人間が問うている限りは絶望です。でも阿弥陀様から「なぜおまえは生きるのか」と問われたときには、もう答えはいらないんです。問い返されただけで、それがもう答えなんですよ。「問いに満たされると答えを必要としなくなる」(救済詩抄)ですね」(p.52)。

 

ヴィクトール・E・フランクルを思わせる言葉です。フランクルの著書「それでも人生にイエスと言う」の中の「私たちは問われている存在なのです」という言葉は、キリスト教徒にも仏教徒にも響くのでしょうね。

 

「「経典製作者」がいて、作られた「物語」なんですよ。それはあくまでも作られたものなんだけれども、その作られた「物語」の中に、人間そのものを救済を象徴する〈真実〉が書かれているということです」(p.57)。

 

聖書のかなりの部分を「物語」として読むキリスト者も少なくありません。わたしもその一人であり、そのように読みながら、そこから〈真実〉を受け取っています。いや、わたしが受け取っていると思っているものは〈真実〉そのものではないのですが、〈真実〉そのものではないものを受け取るという形で、〈真実〉を求めていると思います。

 

阿弥陀様は私を助けなければ仏にはなれないんです。私を助けなければ仏になれないから、阿弥陀様は必死なんですね。だから我々の身体にその身をぶち込んでくる。逆に今度は「仏を助けずんば我ならず」です。私は仏様を仏にさせてあげなければ、私は私になれないんです。お互いがお互いを助ける。「相互救済関係」なんです。どちらかが一方を救うのではないのです。この構造は砂漠の一神教にはないですね」(p.60)。

 

たしかに、これは、キリスト教の神の一方的な恩寵と「構造」は違うように思います。しかし、「他力」の深い意味を伝えているようにも思いました。阿弥陀の必死は、阿弥陀の誠実でもあると思います。何としても人を救うと。また、人が阿弥陀に救われることで阿弥陀が救われるなら、人は感謝こそすれ、卑屈な引け目を感じなくても済むのではないでしょうか。「いや、こちらこそ助けていただいています」という言葉にどれほど救われることか。

 

「そのひとが浄土に往ったか往かないかなんていう問題は、原理教学の意味空間では二の次の問題なんです。だけれども、臨床の場面で、つまり例えば、葬儀の場で、ご遺族と会っているときには、様々な表現をします。「亡くなられたお父さんは、間違いなくお浄土に旅立たれたのです」という言い方もしますね」(p.72)。

 

キリスト教神学でも聖書でも、信仰入門書でさえも、死後の世界の話はほとんど出てこないのですが、わたしたちも「亡くなられたお母さんは、天国で平安でいらっしゃると思います」と言います。これは嘘ではないのです。この物語に真実があるのです。

 

「人間は、この躍動的な〈いま〉以外を生きられません。過去を思い出すのも〈いま〉の出来事ですし、未来を予想するのも〈いま〉の出来事です」(p.127)。

 

キリスト教でもティリッヒという人が「永遠の今」ということを言っています。

 

やはり共通点が多いですね。というか、キリスト教徒でも、仏教徒でも、自己絶対化せずに他に開かれた信仰観を持っている人びとの間には、共通点が多く、それらは、宗教の本質に近いのではないかと思います。

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