もうじき六十歳になるというころから、残りの人生は、死への滑走時間、死を受け入れる準備期間、とわたしは考えるようになりました。ひとつは、年齢そのものがそう思わせるのですが、もうひとつは、それまでの自分の人生が否定されるような経験、ああこれは死なのだなと思わせられる経験があったからです。
わたしはその経験を、ぎこちない形ながらも受け入れようと思いました。そして、やがて訪れる肉体の死も徐々に受け入れていきたいと思ったのです。
そんなわたしに、本書のタイトルは魅力的でした。三十年以上前「傷ついた癒し人」でナウエンに出会い、今も毎朝「今日のパン、明日の糧」を読んでいるわたしは、ナウエンが死について述べる本にも、とうぜん、信頼と期待を置くことができました。
本書にはどのようなことが書かれているのでしょうか。
「死ぬことを生きることと同じくらい自分自身のものにする」「親が私たちの誕生を準備してくれたときと同じ心遣いをもって、死を準備する」 (p.10-11)。
そうです。死ぬことは生まれることであり、死は生なのです。ならば、わたしたちは、死に対しても生に対しても、同じ姿勢が望ましいのではないでしょうか。
「残されている力をすべて手放し、握りしめていた拳を開き、完全な無力さの中に隠されている恵みに実を委ねる」(p.19)。
老化や病気で死に近づくとき、わたしたちは力を失っていき、神に委ねるしかなくなるのですが、神に委ねることは、死に近づく以前から、生きることそのものではなかったでしょうか。
ナウエンは、これを、「もう一度子どもになること」(p.26)とも表現しています。そして、子ども時代の特徴は「依存性」であり、「人間への依存はしばしば隷属へとつながりますが、神への依存は自由へとつながる」(p.29)としています。神への依存は、治療課題ではなく、まさに、神への委ねです。
ナウエンは、死に行く人をケアすることについても語っており、それは「『あなたは神の愛する娘、神の愛する息子』と言い続けること」(p.66)と言います。
これは、死に行く自分にも当てはまることであり、わたしたちは、死に近づきながら、神が自分を子としてくれていることを思い出すのがよいでしょう。あるいは、死が近づくにつれ、わたしたちは神の子であることがますます明らかになって来るとも言えるでしょう。
「自分の人生をとても感謝していること」「赦し赦されることを強く求めていること」(p.155)も死の準備として挙げられていますが、これらも、生そのもののあり方でもあるでしょう。