706 「月や星、苦しみや悲しみは、ぼくらに委託している」 ・・・ 「晩祷 リルケを読む」(志村ふくみ、人文書院、2012)

 志村ふくみさんは染織家です。その志村さんが詩人リルケの「時祷詩集」「マルテの手記」「ドゥイノの悲歌」を読む。ふたりの距離と重なり。それがこの一冊です。

 

 志村さんはリルケに逆説を見ます。

 

 リルケはうたいます。

 

「貧しさは内部からの大いなる輝き」

「貧者の家は聖餐台のようだ/そこでは永遠なものが書物に変わる」

 

 志村さんはよみます。

 

 「神はどこに在ますのかと問えば、闇こそ神であると怖れおののくばかりの答えが返って来る」(p.127)。

 

 「どんなに作者が泥沼のような自己嫌悪や反感やニヒリズムに悩まされ、苦しんで製作していようと、その中を流れる人間の悲哀に対する深い感慨を共有することができれば我々は心洗われ生きるよろこびを与えられるのではないだろうか」(p.140)。

 

 制作の苦しみ、制作と作品の中を流れる人間の悲しみへの深い共感。貧しさと輝き、貧しさと永遠。闇と神。この逆説。ふたりはそこで重なるのではないでしょうか。ふたりのみならず、言い表すことのできないものを言い表そうする者、表現できないものを表現しようとする者たちは、ここで重なるのではないでしょうか。

 

 「春の方がリルケを待ち望み、星はリルケが歌ってくれることを期待しているのだ。道のほとりを歩いていたとき、流れてきた提琴の音をああ美しいと思うのではなく、その音色がリルケに身をゆだねてきたのだ。それは一体どういうことか。それらすべてが委託だったとは! 自然が詩人に委託するとは!」(p.169)。

 

 「それを愛(め)でいとおしむものがなくて、どうして提琴の音は響きわたることができるだろう。人々の心に浸みわたる音楽の無量の喜びなくして、その音色は詩人に身をゆだねることはあり得ないのだ。それが委託ということなのだ。それを感受し、讃仰し、言葉を鏤骨し、捧げるものこそ詩人なのだ」(p.170)。

 

 「もし秘儀ということがあるならば、それは決して生者の領域からではなく、目に見えぬ世界をこの世にあらわしめしようとする意志が詩人に託された仕事であり、詩人ひとりにのみ託されたのではなく、詩人をとおして、ひとりひとりの人間に託されているものであると思う」(p.182)。

 

 春や星はその美しさをリルケに委ね、それを詩にするようにとリルケに委託しているのです。リルケはその美しさを愛(め)で愛(いと)おしむ。美しいものは自分を愛で愛おしむ者に自分を委ねるのです。

 

 志村ふくみさんもまた色からそれを委託されたひとりです。目に見えるモノを製作するとは、じつは、このことなのです。

 

 ぼくもその小さな一人なのかもしれません。ぼくは聖書から言葉を紡ぎます。聖書は、月や星と同じように、ぼくたちにその美しさをぼくたちの言葉にするように委託しているのかもしれません。

 

 悲しみや苦しみも闇も、それを表現するようにとぼくたちに委託しているのかもしれません。

 

 春や星、色、聖書、悲しみ、苦しみからの、表現の委託に応えようとする、その奥底で、ぼくたちは、目に見えないもっとも大切なもの、永遠なるものを予感するのではないでしょうか。

 

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