深井さんは本書では「脱出」と「受容」という視点からティリヒを描いたと言います。ドイツ、父親、ルター派教会、キリスト教会からの脱出、そして、アメリカ、学会、読者による受容、また、性や政治面での逸脱、既存の信仰からの逸脱、神による受容が重なりあいます。
受容については、さらに展開されていきます。「受け入れられるはずのない者が、「それにもかかわらず」受け入れられる。この主題をさまざまな変奏曲によって、さまざまな楽器を使って演奏したのが彼の神学だった」(p.262)。
どのような変奏曲、どのような楽器なのでしょうか。「彼の人生とその中で営まれた思想は「毎日の生存の不安定と意味の崩壊にもかかわらず人生を肯定する」ことにあった。それは彼のお気に入りの表現によれば「存在が非存在に打ち勝っている」ということを肯定できるということであった」(p.265)。
ぼくも「神の愛は、人間のあらゆる窮状に勝っている、包み込んでいる」とでも変奏しておきましょうか。
深井さんもいろいろ変奏します。「彼の思想の魅力は、自らの未完成性や人格的破綻を受け入れ、「それにもかかわらず」生きる勇気を見出そうとしていたところにあるのではないだろうか」(p.17)。
生きる勇気とはティリヒの言葉では「われわれが受け入れられえない者であるにもかかわらず受け入れられているそのわれわれ自身をわれわれが受け入れるという勇気である」(p.19)。
「わたしなどは神からとうてい受け入れられない」「いや、神はあなたを受け入れているよ。その事実を受け入れなさい。」「そんなことは信じられない」「いや、神はあなたを受け入れている。簡単には信じられなくても、勇気をもって信じなさい」ということでしょうか。
ティリヒのこのような思想は、新約聖書のパウロや宗教改革者ルターが言う「義認」の「教理の脱構築」(p.65)と深井さんは言います。その通りだと思います。
パウロは「信仰によって救われる」と述べていますが、これには、「人間は罪人であるにもかかわらず」という前提があります。「信仰によって」は、行動ではなく信仰によって、とも解されますが、人間の力ではなく神の愛によって、とも受け止められます。
パウロのこの表現自体も、神のあるリアリティをその時代の読者に伝えるためのもの、とも思われますが、ティリヒはそれをさらに二十世紀の人びとに向けて言い変えていると考えられます。
では神自身のことは、ティリヒはどのように表現しているのでしょうか。この本では「存在それ自体」「存在の根拠」「存在を存在とする存在の力」「存在の根底」というティリヒの表現が挙げられています。また、キリストは「新しい存在」と呼ばれています。
わたしたち人間は「存在」しています。その存在の根拠、根底が神なのです。わたしたちは神によって存在させられているもの、つまり、存在の目的語であり、神は、存在の主語と言うことができるかもしれません。
キリストは「新しい存在」と呼ばれます。それは、わたしたち人間をここに存在させる、新しい主語ということでしょうか。
神から受容される、受け入れられる、ということは、存在を脅かされたり、存在から逸脱したりするわたしたちが、それでも、存在の目的語にふたたびされるということでしょうか。
ところで、深井さんには「不正論文疑惑」があります。存在しない神学者を捏造したという疑惑です。それが事実であるとすれば、本書の以下のような記述には、それに通じるものが感じられます。
イエスの譬え話に出てくる「不正な管理人」について、「自己救済のために、現にある証文までも書き換えて、生き抜こうとしているこの管理人の姿はまさにティリヒの姿である」(p.22)。「トーマス・マンはケーラーについてティリヒが書いた手紙での記述をほぼそのまま使って、『ファウスト博士』にエーレンフリート・クンブフという架空の神学教授を登場させた」(p.46)。
深井さんは、「不正な管理人」、ティリヒ、トーマス・マンのやり方を、不正というよりも、論述のための構想力と見なしていたのではないか、とふと思いました。
あるいは、それが「不正」と言われようとも、「不正」をしたと呼ばれる人間も、神は受け入れると。