614   「不完全なものが完全を表す」・・・「岡倉天心『茶の本』を読む」(若松英輔、岩波現代文庫、2013年)

 岡倉天心と言えば、東京美術学校開校者、日本美術院創設者、近代日本美術の先駆者とされ、その仕事は、美術教育、美術家養成、古美術保護、日本美術史研究、日本美術思想の世界への伝達として知られています。


 しかし、若松英輔さんのこの本は、岡倉が茶道を超越の窓としていたことを明らかにしています。

 

 岡倉にとって茶道とは何なのでしょうか。

 

 「義だ! 貞節だ! などというが、真善の小売をして悦に入っている販売人を見よ。人はいわゆる宗教さえもあがなうことができる。それは実のところたかの知れた倫理学を花や音楽で清めたもの。教会からその付属物を取り去ってみよ。あとに何が残るか」(p.61-62)。

 

 イエスの神殿での行為を思い出させますが、これは岡倉の「茶の本」からの引用です。「陳腐な価値観を花と音楽の力を借りて押しつけている、と天心は既存の宗教、ことにキリスト教を批判する」(p.62)。若松さんによれば、その天心にとって、「「茶道」は、宗派性の彼方にある、原意に基づく「宗教」」ということになります。

 キリスト教、仏教、イスラム教といった各宗教、さらには、各宗教内の各宗派の彼方には、その宗教を生み出した超越が存在し、宗教は本来それを純粋に志向するものであるが、茶道はそれだ、というのです。

 

 「天心にとって「茶」は天界と地上界を結ぶものであり、また、心という不可視なものの働きを、静かにまた、密かに助けるものでもあった」(p.108)。

 世界にはさまざまな宗教があります。それらには共通点もあるが違いもあります。しかし、若松さんは「違いは、それらに包摂される超越の実在を予感させる」(p.2)と言います。若松さんは「超越」を「豊穣なる源泉」とも言い換え、天心はそれを「究極普遍的なるもの」と呼びます。

 

 岡倉はまた「超越」を「愛」とも呼びます。岡倉にとっての「愛」は、若松さんによれば、「存在の根底にあって万物を生かす働き」(p.3)です。そして、岡倉を受けて若松さんは「宗教が愛を生むのではない。愛が、宗教を生む」と記します。

 

 宗教は超越を求めて、あるいは、超越に導かれて生きる道とも言えますが、若松さんによれば、岡倉は「生きる目的は一つに収斂するかもしれないが、いかに生きるかの道は無数にある」と言います。

 究極は一者であるが、そこにつながる道は多様であり、互いに異なる、しかし、「異なるものは、その奥に一なるものがあることを予感させるものとして存在する」(p.3)と言うのです。

 「日本人には「日本的霊性」があると鈴木大拙が言うように、インド人にはインド的霊性がある。それぞれの文化にはそれぞれの霊性がある。唯一絶対の霊性は存在しない。霊性は、ときに表層においては接点がないほどに異なって見える。だが、ひとたび存在の深みに入れば、どの霊性も、究極者をどこまでももとめるという点において、著しく共振する。霊性の地平では、無数の「不完全なもの」がその彼方に「完全なもの」があることを指し示す。差異は、顕われるべき完全があることの証左となる」(p.139)。

 若松さんは、井筒俊彦の「誤読」についての発言を引用して、「「誤読」とは単なる恣意的な読みではない。読み手と書かれている言葉との極度の緊張が生み出す「創造的」行為である」(p.47)と記しています。

 わたしは書物の読後に「誤読」ノートをつけていますが、これは、若松さんのこの考えに助けられていたと思いいたりました。というのは、わたしが誤読ノートをとりはじめたのと若松さんの著作を読み始めた時期が重なるからです。

 

 わたしは文章を正確に読んで入試の国語の問題に解答したり、大学の論文を書いたりすることが苦手です。正しく読めていないという引け目をいつも感じています。しかし、読むことで何かをつかもう、得よう、(たとえ著者の意図することとは違うことでも)受け取ろうという気持ちはあり、そこから、もしかしたら、何かが生まれるかもしれない、という期待もあります。

 

 「「不完全なもの」ものはいつも、その彼方に「完全」なるものを感じさせる。茶道は表さないことによって、隠れたものの実在を顕わにする。人は、余白を感じることで、そこに不可視なるものが存在することを想像する。充たされざるものが、かえって、充たす者をありありと表現する」(p.86)。

 

 そうであるなら、わたしの誤読が他の人の深い読みを誘う可能性も否定できないかもしれません。

 

 「「変化こそ唯一の永遠である。何ゆえ死を生のごとく喜び迎えないのであるか。」(第六章、村岡博訳)と天心は『茶の本』に書いてある」(p.207)。

 

 永遠の本質が変化であるなら、生における変化も、死という変化も、永遠を反映しているのではないでしょうか。そして、宗教や文化の多様性、さらには、誤読という変化さえも、永遠との接点を含んでいるのではないでしょうか。

 

 先に引用した天心の「それは実のところたかの知れた倫理学を花や音楽で清めたもの。教会からその付属物」の言葉は、教会で語られているものは「たかの知れた倫理学」であり、花や音楽がそれをごまかしているとも読めます。

 

 しかし、「花や音楽が清める」というのは皮肉ではないでしょう。天心は花や音楽が天につながっていることを知っているのですから。

 

 大事なことは、教会に飾られる花も、奏でられる音楽も、語られる倫理学も、不完全でありながら、完全なものを映し出すという目的を持つということではないでしょうか。天心は「目的は一つに収斂するかもしれない」と言っています。完全になることではなく、不完全なまま超越の窓口となるという目的をいつも覚えることです。

 

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