629 「自分はダメだと思わない勇気」
「生きる勇気」(パウル・ティリッヒ、平凡社ライブラリー、1995年)
「生きる勇気」は「存在への勇気」とも訳されます。「存在」とは「ある」「いる」という意味ですが、人間の場合は「生きる」といってもいいでしょう。
「勇気」とは何でしょうか。ティリッヒは本書でそれを歴史上の諸思想に言及しつついくつかの角度から述べています。「生きる勇気」「存在への勇気」とは、「わたしたちが、死、不安、罪責を負っているにもかかわらず、絶対者(神)が肯定してくれることを、わたしたち自身が肯定する勇気」のことです。「わたしはだめだとしか思えないにもかかわらず、神がよしとしてくれていることを受けいれる勇気」のことです。自分を肯定することにも、神が自分を肯定してくれることを肯定することにも、勇気が必要なのです。
わたしたちは、全体の部分として生きることで、生きがいを持ち、自分を肯定しようとします。しかし、それは、個人としての自分が、全体の中で押しつぶされることにつながりかねません。ファシズム下のように。
あるいは、自分一人で生きることで、生きる勇気を持とうとします。しかし、それは、自分の周りの世界、人びととのつながりを失うことにもなりかねません。
このふたつを乗り越える道が、超越に根差した生き方です。集団でもなく自分でもなく、神を「生きる勇気の源泉」とする生き方です。
ティリッヒによれば、神は「存在それ自体」です。わたしたちは「存在それ自体」というよりは「存在している者」「存在させてもらっている者」「存在を与えられている者」です。そうすると、「存在への勇気」とは「存在する勇気」であると同時に、「神への勇気」であり「神を受け入れる勇気」であり、「神がわたしを受け入れてくれていることを受け入れる勇気」なのです。
「『不義なる者が義とされる』というルターの言葉、あるいはそれをより近代的な言葉でいえば、『受け容れられえないものが受け容れられる』ということだ・・・生きる勇気とは、われわれが受け容れられえない者であるにもかかわらず受け容れられているそのわれわれ自身をわれわれが受け容れる勇気である」(p.249)。
死、運命、自分の無意味さ、罪責を前にして、わたしたちは自分を受け容れられなくなってしまいます。けれども、ティリッヒは、存在は無も含む、と言います。つまり、死、絶望、失敗、不安、虚無も、存在に含まれるのです。すると、わたしたちはどこまでも存在の中にあることになります。それが神に受け容れられているということではないでしょうか。ダメなわたし、死ぬわたし、弱いわたし、価のないわたしも存在の中にある、神の中にある、そして、そのことが、それを受け入れることが、生きる勇気になる、とティリッヒは言うのです。
ここには、神との「出会い」があります。集団への「埋没」にでもなく、他からの「孤立」にでもなく、超越との「出会い」にこそ、わたしたちが生きる勇気、存在する勇気の源泉があるのです。わたしたちは、存在そのものである神との出会いによって、存在する者とされているのです。
「出会い」とは、わたしたちが死、絶望、虚無感にあっても存在の中に含まれることに気づき、その存在に、主よ、あなたはどなたですか、と語りかけ、わたしを満たしてください、と祈ることでありましょう。
野の花は、気づいていなくても、すでに土に根差しています。花は、自分の花びらだけでなく、根にも心を向けると良いのかもしれません。