632    「コロナ前に戻るのではなく、コロナ前とは違う社会へ」 ・・・「ユダよ、帰れ コロナの時代に聖書を読む」(奥田知志、新教出版社、2021年)

 「『キリスト教徒にならないと救われない』という教えはいかにも『スケールが小さい』。この教会は、そういう差別的な宣教理解は卒業しました」(p.51)。

 

 「『信じる者は救われる』と言います。はたしてそうでしょうか。『信じられない、認められない、分からない、けれどもすでに救われている』が正解だと思います」(p.18)。

 

 神は、ある条件を満たす人だけを救うのではなく、無条件にすべての人を救う。人は、自分の努力ではなく、神の一方的な愛によって救われる。著者の無名の同業者であるわたしも、そう思います。しかし、救われる人と救われない人がいると考える同業者も少なくないようです。

 わたしは、このような万人救済、人間の力ではなく神の愛による救済の根拠として、「実にキリストは、わたしたちがまだ弱かったころ、定められた時に、不信心な者のために死んでくださった」(新約聖書、ローマの信徒への手紙5:6)や「父は悪人にも善人にも太陽を昇らせ、正しい者にも正しくない者にも雨を降らせてくださるからである」(新約聖書、マタイによる福音書5:45)などを思い浮かべます。(ちなみに、ここでの「父」は神のことです。)

 

 本書の著者の奥田さんは、わたしが上に挙げたような、神はすべての人を救うと直接的に言っているのではない聖書個所からも、そのメッセージを掘り起こします。それが、本書の中で、わたしがもっとも心を打たれた点です。

 

 たとえば、新約聖書のマルコによる福音書16章に、イエスが復活するという物語がありますが、奥田さんは、こう言います。その朝イエスが墓にいなかったということは、イエスの「復活は夜明け前、『闇の中で』すでに起こっていた」(p.17)と。弟子たちはイエスが死んで絶望に沈んでいたけれども、そのような「弟子たちの現実とは関係なく復活は起こった」(p.14)というのです。絶望していた弟子たちはこれによって希望が与えられますが、この希望は、弟子たちの心理状態とか努力とかに関係なく、弟子たちが絶望していても生じ、神によって一方的に与えられるというのです。

 

 あるいは、「あなたがたの名が天に書き記されていることを喜びなさい」(新約聖書ルカによる福音書10:20)という聖書の言葉から、奥田さんはこう言います。名前には悪名も含まれる。それでも、天に書き記される。つまり、善人、悪人に関係なく、神はわたしたちを受け入れてくれる、というのです。「『名が記される』ということは、私に対する絶対的な受容なのです」(p.113)。

 

 「するとイエスは、『はっきり言っておくが、あなたは今日わたしと一緒に楽園にいる』と言われた」(ルカ23:43)。

 

 イエスの十字架の右と左にも十字架が立てられたとルカは物語っています。そのうちの一人はイエスをののしり、もう一人はイエスを信頼します。そして、イエスは自分を信頼した方に「あなたは」と呼びかけたと読むのが一般的ですが、奥田さんは、イエスはこれは自分を罵った方に語りかけたと読みたいと言います。「私はあえて『あなた』を、自分の責任を顧みず最期まで他人のせいにする『悪い犯罪人』の方だと読みたいのです。せめて『良い犯罪人のあなたは言わずもがな、筋違いの八つ当たり野郎のあなた、あなたこそ私が責任をもって天国に連れて行くから』とイエスに言ってもらいたいのです」(p.150)。

 

 本書には、ほかにも魅力的な聖書理解がいくつも登場します。

 

 「人々は食べて満腹したが、残ったパンの屑を集めると、七籠になった」(マルコ8:8)。

 

 奥田さんはこう言います。「パンが残るのは『荒野の共食』が未完であるからです。共に食べるべき人が全員そろっていないということです。分断と差別の中に置かれている人が現に存在し、その人々を残したまま食事を終えることはできないからだと思います」(p.133)。これは、野宿している人びとを訪ね話を聞くということを長年やってきたことから出てくる聖書の読み方でしょう。

 

 「祈るときは、奥まった自分の部屋に入って戸を閉め、隠れたところにおられるあなたの父に祈りなさい」(マタイ6:6)。

 

 奥田さんはこう読みます。「到底人前では祈れないような祈り、ムカついている思い、呪いのような祈りを神にぶつけるために『戸を閉じて祈れ』とイエスが言っていると読みたいのです」(p.153)。

 

 「主の祈り」は、「主」つまりイエスがこのように祈ってはどうかと教えてくれた祈り、と理解されることが多いのですが、奥田さんは、「『主の祈り』は、実は私たちが、主によってすでに祈られていたということを意味している」(p.174)と言います。

 

 キリスト教の大きなテーマである「復活」について奥田さんは大事な指摘をしています。「『復活』はもと来た道に戻るのではない。いくら懐かしかろうがそこに戻ってはいけない。全く新しいいのちに生きること、それが『復活』なのだと思います」(p.24)。

 

 そして、奥田さんはこれをポストコロナにつなぎます。わたしたちは「資格」によって人をふるいわけ、「資格」のない人を排除します。「生きる資格がない」とされた人が殺されることもあります。しかし、奥田さんはこう言います。「『資格があるか』を基準に考える、それがコロナ以前の思考です。しかし、ポストコロナはそうはならない。いや、オルタナティブな、そうではない世界を作らねばならないと思います・・・会社に行くよりもいのちを選ぶ、学校よりもいのちが大事。それを公然と言える世界。それが『いのち優先』の世界です」(p.194)。

 

 野宿をしている人びととの活動、そして、教会。そこは、奥田さんにとって、『全く新しいいのちに生きる』場、『復活』の場なのではないでしょうか。

 

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