日本聖書協会が2018年に出した新旧約聖書の翻訳「聖書協会共同訳」は、どのくらい普及しているのでしょうか。それを促すことにも関係しているのでしょうか、この訳に基づいた詩編のガイドブックが2021年に出版されました。
わたしが最初に手にした聖書は1955年発行の口語訳聖書、神学生になって1987年発行の新共同訳を使い始め、現在の教会の礼拝でも、これを用いています。
その間、岩波書店からも聖書全巻の翻訳が出ましたし、個人訳の日本語聖書もいろいろそろえ、新共同訳聖書の訳を見ながら気になる点があれば、これらの頁も開いてきました。(優秀な人は、ヘブライ語、ギリシャ語、各種英訳、独訳なども参照するようです。わたしは、優秀ではありませんが、在日ペルー人と一緒に礼拝をするためにスペイン語訳を見ていた時期がありました。)
さて、本書で、おもしろかったところをいくつか挙げてみましょう。
「竹冠の「篇」は木片のようなものを・・・それをひもや糸でまとめるのが「糸偏」のほう」(p.12)。
つまり、「詩篇」は個々の詩を、「詩編」はそれらの集合を指すということのようです。
詩編に収められている詩には、並行法、交差配列、囲い込み構造などの文学的な技法が用いられています。これが図入りでわかりやすく説明されています。また、詩編の詩には、賛歌、嘆きの歌、王の詩編、感謝の歌、知恵の歌などの類型が見られるといます。さらには、詩は無秩序に並べられているわけではなく、配列にも意図が見られるといます。
詩編137編8-9節には、「娘バビロンよ、破壊者よ/幸いな者/お前が私たちにした仕打ちを/お前に仕返しする者は。/幸いな者/お前の幼子を捕えて岩に叩きつける者は」という激しい言葉があります。
イスラエルの民の国を滅ぼし、人々をバビロンの地まで連行し、捕囚にしたバビロニアは破壊者である、彼らに仕返しを、彼らの子どもは岩に叩きつけられてしまえ、と言うのですから、神の言葉とも、人の祈りの言葉とも思えません。どうしてこのような激しい言葉が詩編にはあるのでしょうか。
本書第三章の執筆者である石川立さんはこう記しています。「バビロンへの憎しみを強調するのは、捕らわれのイスラエルの人々がバビロンでの生活に次第に親しみ、同化し、異国に定着してしまわないかと恐れるからです。捕囚の地で生きることに慣れてしまわないように、この詩は、強い口調で警告し、エルサレムを破壊したバビロンの国に同化しないように、ユダの人々を奮い立たせているのではないでしょうか」(p.81)。
同じ個所について、第四章の執筆者の石田学さんは、別の角度から論じています。「嘆きと悲しみの体験を神に訴え、理不尽な苦しみに対する報復と呪いを神に祈り求めることが、グリーフ・ワークの意味も含めて正当なものである」(p.125)。
バビロンで捕囚の身とされたイスラエルの人々にはバビロニアによって国が破壊され同胞が殺されたという嘆きと悲しみがあり、それへの報復を求める祈りには悲しみをケアする意味があるというのです。
そして、そのような詩が詩編に収められているのは、「わたしたちがそれらの詩を通して、詩人たちの苦難と彼らの祈りを追体験する」(同)ためだというのです。
いかがでしょうか。