617   「宗教を別の言葉で言い変える、誰にでもある経験で言い変える」 ・・・「人と思想 135 ティリッヒ」(大島末男、清水書院、2014年)

 

 

 このシリーズは「概説とその中心となる思想を、わかりやすく・・・平易な記述・・・学生・生徒の参考読物として・・・」出されていることになっていて、たしかに、わかりやすいものもあったのですが、この本はひじょうに難しかったです。

 哲学用語、哲学の言葉遣い、ヘーゲルハイデガーといった哲学に馴染んでいる人にはわかりやすいのかも知れませんが、そうでないわたしは、一応神学書を数十年読んできたのに、とても手こずりました。

 

 けれども、わからないところは無理にわかろうとしない、わかったところには線を引く、というやり方で、なんとか最後の頁までめくりおえました。

 

 そして、線を引いたところだけ読み返してみると、ほぼ全ページにわたって、何行かずつは線が引いてあり、再読しても理解できたので、案外わかったのかな、とも思いましたが、わかっていない部分、線を引いていない部分(の中には、わからなかった部分と、重要とは思わなかった部分が含まれます)も大きく、やはりわかっていないのかな、とも思います。

 ともあれ、神とは何か、キリストとは、聖霊とは、人間とは、世界とは、救いとは、永遠のいのちとは、罪とは、人間の生きる道は何か、といったキリスト教神学の主要テーマが、哲学の言葉で言い直されていて、組織神学の入門書にもなりうるでしょう。

 「ティリッヒは、哲学的言語や哲学的体系によってキリスト教の真理を象徴的に表現しようとする・・・ティリッヒは、現代の知識人にキリスト教を弁証するために、キリスト教の教義(symbol)を哲学的言語によって解釈しようと試み、その結果、哲学の問いと神学の答えの相関論を形成した・・・本書で私は、ティリッヒの初期の著作から『組織神学』の第三巻に至るまで、哲学と神学の相関論を跡づけ、ティリッヒ神学の最深層を開示しようと試みたが、はたして成功しただろうか」(p.210)。


 哲学になじみのないわたしにはこの試みが成功したかどうか判断できませんが、キリスト教の表現体系を他の表現体系で言い変えるということには興味を持ちました。

 わたしは高校で聖書の授業をしていますが、キリスト教を生徒にわかりやすい言葉で伝えるだけでなく、キリスト教の言っていることの中には人間が一般的に思考していることに通じることも少なくない、ということもわかってほしいからです。

 さて、著者によれば、ティリッヒはどのような人なのでしょうか。断片的に引用してみます。

 

 「ティリッヒは、神学と哲学の統合を試み、東洋の宗教を根底から理解しようと努力した稀有な学者である」(p.11)。「異なるものの統合と相関というティリッヒ生涯の課題」(p.21)。「歴史の真理は、歴史を超越するプラトン的な不変のイデアの中ではなく、矛盾する原理間の動的な闘争の中にある。これがティリッヒの根本的立場」(p.22)。

 

 「統合」はティリッヒのキーワードのひとつかもしれません。内在と超越、有限と無限など、いくつもの対概念の統合が、本書の全般に見られます。

 

 「神の祝福は、人間の計画がむなしくなる処に逆説的に啓示される・・・ティリッヒの神学体系を支える鍵語の一つである」(p.20)。

 

 本書の難しい部分も、このような平易な逆説を言っているのではないか、と予測しながら読むと、そのように思えて、理解できた気になるところもあります。

 

 「無制約者がすべてを呑み込む深淵であると同時にすべてを生み出す根底であること、また宗教の実態は無限が有限の中に切り込むことであると同時に、無限と有限を統合する境界線であることなど、同一性と差異性の同一性はティリッヒの創造的思考の端緒となった」(p.23)。

 

 神は人間や世界をすべて包み込むが同時に人間も世界も神から生み出された、神は無限でありながら人間や世界という有限のなかに入って来る、この無限と有限、神と人間・世界を統合する境界線が宗教、「同じであること」と「異なっていること」は結局「同じである」という意味なのでしょうか・・・

 

 「イエスの愛の倫理の中に生活の規範を見出す真の教会は資本主義と軍国主義を克服して社会主義を取り入れるべきである。なぜなら、現代というカイロス(好機)においては、無制約者(存在の深み)を表現するために、社会主義という制約された形式の使用が要請されているからである。もちろん社会主義体制と神の国は全く異なるが、特別の時(カイロス)においては、社会主義に対して決断することは、神の国に対して決断することだからである」(p.37)。「存在自体がカイロスにおいて自己を実現する処(キリストの出来事)では、人間の限界状況が自覚され、正義と愛への献身が生れるので、潜勢的(隠れた形)ではあるが、真の教会が形成される。これが宗教社会主義の本質であり」(p.38)。

 

 社会主義体制と神の国は全く異なるが、それぞれに対する決断は同じことである、というアクロバット的な主張がなされています。これも「統合」や「同一性と差異性の同一性」の一例でしょうか。

 

 「ティリッヒは、神学と深層心理学の学際的研究に基づいて、キリスト教の罪の赦しを「受容されること」「自己受容」と解釈した」(p.57)。

 

 ティリッヒのこの考えは、ティリッヒのものとは意識されていなくても、ある程度普及しているように思います。むろん、罪の赦しを自己受容に完全に還元してしまうことに抵抗するキリスト教徒も少なくないと思いますが。しかし、このように、キリスト教用語である「罪の赦し」をいまや一般的に使われる「自己受容」に翻訳することは、ある場面、領域では有効だと思います。

 

 そのほかにも、ティリッヒが神を「究極なるもの」「存在の深み」などと翻訳していることも、参考になります。

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