「一般的な宗教、つまり狭義の宗教では、私が悪魔化と呼んでいる危険性に支配されています。これは、ある特定の象徴や概念が絶対化され、それら自体が偶像化したときに、悪魔化が起こるのです」((p.22)。
たとえば、イエスが馬小屋で生まれたという「象徴」的物語が歴史上の事実であると絶対化されるような場合です。しかし、ティリッヒは「象徴」を否定していません。
むしろ、こう述べています。「私は、聖なるものそれ自体が神聖性のための象徴なしに私たちにその無制約的性格を保つことを疑っています」(p.279)。「象徴は動かされてはなりません。それは再解釈されるべきなのです」(p.161)。
「代償的刑罰と言う意味での贖罪の教理はとにかく死んでおります」(p.233)。イエスの十字架の死という象徴は、「あれは代償的刑罰であった、イエスは私の代わりに罪を償うために罰を受けた」と絶対化されることなく、現代のわたしたちにとって、あるいは、はんたいに、人間存在にとって普遍的にどのような意味を持つのか、再解釈されるべきなのです。
ところで、ティリッヒは、一般に神と呼ばれているものを、どのようにとらえているのでしょうか。
タイトルの「究極的なもの」もそのひとつです。あるいは、「究極的なものは、ピラミッドの根底であり同時に頂点でもあるものなのであって、つまりピラミッド全体を包含しているもの」(p.56)とも言っています。これも、絶対的定義ではなく、象徴に留まりますが、聖なるもの、神と呼ばれるものを示そうとしています。
ティリッヒは、「無限なるもの」「無制約的なもの」、あるいは、「存在それ自体」や「存在の根拠」という表現もしています。しかし、これも象徴に留まります。「『根拠』(ground)というのは一つの比喩に過ぎません。そしてこの語は創造の概念、つまり創造の象徴を指し示す比喩なのです」(p.84)。あるいは、「神は存在、非存在を超えておられる」(p.262)ともあります。
イエスについてはどうでしょうか。「イエスは一つの有限的な実在でしたし、仏陀もそうでした。しかし、彼らを通して究極性が光り輝いたのです。このことは一人の母親を通してでさえ起こるのです。また、このことは、子供を通して、一輪の花を通して、あるいは山を通してでさえ起こるのです」(p.58)。
ここで、ティリッヒは、イエス・キリストはまことの人でありまことの神であるという象徴を、また、キリストという象徴を再解釈しているのかも知れません。
さいごに、ティリッヒはアガペーをめぐって興味深いことを述べています。「アガペーは、絶対的原理であるばかりか、可変的な原理でもあります。愛の偉大さは、それが具体的な状況に即して絶対的であるばかりか、可変的でもあることです」(p.305)。
結婚や修道の誓約も、アガペーの可変的原理に即して見れば、変更可能であるということです。むろん、その他の人生のもろもろの決断についてもそうでしょう。しかし、ぎゃくに、可変的であるが、どうじに、絶対的である、ということも忘れてはならないでしょう。
ティリッヒは「存在への勇気」という著作があります。これは、「各個人が自己自身であるための勇気」ですが、「この自己肯定は神の自己肯定から出ている」(p.319)と言います。
アガペーは、いわば、「にもかかわらず自己を受容すること」(p.321)です。神のアガペー、つまり、わたしがこうであるにもかかわらず神がわたしを受容してくれることに基づいて、わたしもわたしがこうであるにもかかわらずわたしを受容するという自己肯定なのです。
すると、こんなわたしにもかかわらずわたしがわたしを受容できるように、こんなわたしにもかかわらずわたしを受容してくれるもの、を神と呼ぶ、ということもできるでしょう。
五十年前の本なので、印字が薄くなっていたり、翻訳が悪かったりで、読みやすくはなかったですが、なんとか読み、ところどころ、わかったつもりです。