日本語は主語があいまいだが、英語ははっきりしている、とかつて習った。
そして、動詞の主語と目的語を入れ替えると、能動態から受動態になると。
ところが、言葉は動詞からではなく名詞から始まった、とこの本は言っている(ように思う)。
「ぼくがあなたを愛する」「あなたはぼくに愛される」というのではなく、ただ、そこには「愛」がある、という。
ケアの世界で言えば、ぼくがあなたをケアする、あなたがぼくをケアする、というのではなく、ただそこには「ケア」という事態がある。
スピノザは森羅万象は神の表れだと言った(のかな)。花も神の表れである。花が咲くとは、神が花として現われた、のである。雨が降るとは、神が雨として現われた、のである。主語ということを敢えて言うのなら、すべては、神である。言い換えれば、主語があり目的語があるのではなく、ただ出来事、事態、場があるのだ。
能動態、主語と目的語の世界だと、責任は主語に帰せられる。わたしは貧乏になった。責任はわたしにある。
しかし、中動態的世界、能動態ではない世界、たとえば、ケアの世界では、責任は犯人捜しではなく、responsibility 応答である。
貧困という出来事が起こる。責任は、その出来事に対する応答、反応として現われる。
こんなので、あってますか?
ところで、信仰義認ということがキリスト教では言われる。イエスを信じる人は神によって救われるというのだ。
しかし、これを、中動態的に言えば、わたしという個人がイエスという目的語を信じたからわたしは救われる、というのではなく、イエス、神、わたし、という場に、信頼という出来事がある、その状態が救いである、となるだろうか(ならないかもしれない)。でも、こっちの方が好きだな。
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