武田定光さんは浄土真宗の住職であり、ぼくはプロテスタントの牧師ですが、武田さんはぼくがもっとも共感できる宗教者のひとりです。
安易に「まったく同じ」などと言うつもりはありませんが、この本に出てくる宗教思想には、プロテスタントの信仰とかなり強く共鳴するものがあると感じました。
「「自分が何かを信じる」のではなく、阿弥陀如来に自分がまるごと信じられていると受け取ることです。私は主語ではなく、むしろ客体です」(p.27)。
プロテスタントは「私は神を信じる」ということを言いますが、その前提に、「神が無条件に私を愛してくれる」という信仰があり、救いにおいては、神が主語であり、私は客体です。
「人間は劣等感と優越感で苦しみます。強い劣等感は自分を責め苛みます。人間は、都合によっては自分をも見捨てる生き物です。そうであっても阿弥陀如来は永遠に愛を投げかけ、私を一方的に愛し続けてくださいます。「あなたが自分を見捨てても、私は永遠にあなたを見捨てない」と」(p.29)。
この阿弥陀如来を「神」や「キリスト」と置き換えれば、そのまま、キリスト教の信仰になります。
「念仏は人間が称えるものではなく、阿弥陀如来自身が称えられるものです。私たちはその声をお聞きするだけです。」(p.46)。
キリスト教には「主の祈り」というものがあります。わたしたちの主(しゅ)であるイエス・キリストが教えてくれた祈りとして聖書に記されています。キリスト教徒はこの祈りをことあるごとに唱えるのですが、最初に唱えたのはキリストであるとすれば、主の祈りも、キリストの称える主の祈りを聞くことだとも考えられるのではないでしょうか。
「親鸞の言う「善人」は「自分の力で往生できると考えるひと」ですし、「悪人」は「他力をたのみたてまつるひと」です」(p.50)。
新約聖書の福音書においては、律法を守る自分たちは救われているとする人びとをイエスは「偽善者」とか「正しい人」と呼び、彼らが「罪人」呼ばわりする人びとこそが神の国に入ると言ったことが想い出されます。
「本質的には阿弥陀さんは、人間のような形をしていません。人格神のように錯覚されますが、一神教の人格神とは違います。阿弥陀さんとは、人間の「how to」の知恵を絶対否定してくださるはたらきを、仮に人格的に表現したまでのことです」(p.183)。
キリスト教の神は人格神と言われますが、旧約聖書には「知恵」、新約聖書には「言(ことば)、ロゴス」という言葉が出てきます。あるいは、旧約にも新約にも「霊」「聖霊」という言葉が出てきます。キリスト教徒の中にはこれらを人格神と信じる人びともいますが、阿弥陀さんのような「はたらき」と理解する人びとも少なくないと思います。