聖書の女性と言えば、エバとマリアくらいしか、すぐには出てこないかもしれません。けれども、それ以外にも、じつはたくさんの女性が登場します。マリアという名の女性もイエスの母一人ではありません。
この本は、そうした聖書の女性たちの物語を、聖書の物語に即して紹介しつつ、どうじに、その物語の意味を掘り下げています。その際に、神への信仰という視点だけでなく、男性中心社会という文脈の中で、彼女たちが被った苦境と、それにもかかわらず、そこに埋没しなかった生き方を、想像力ゆたかに回復させようとしています。
「つうじょうこの物語から、出産の苦しみは神の呪いだと結論づけられることがあったが、物語において神は女を呪っていない。呪われたのは『蛇』と『土』であって女でも男でもない」(p.30)。
著者は「つうじょう」とひらがなで書いています。「この物語」とは、ある木の実を食べてはならないという神の戒めをアダムとエバが破った話です。
たしかに、創世記3章16節には「お前は、苦しんで子を産む」という神の言葉があり、14節には「蛇は呪われるものとなった」と、17節には「土は呪われるものとなった」とありますが、「女は呪われた」とは書かれていません。
そのように言われるのは、いくつかの節をごちゃまぜにしているからでしょう。こうして、著者は、「女性は神に呪われている」という偏見(=人からの呪い)から女性を解き放とうとします。
エバの置かれた時代の何千年(?)か後、イエスの時代、「ファリサイ派のグループは、自分たちの食卓の交わりに女性を正式のメンバーとして迎えていたとさえ考えられる。イエスのバシレイア運動も、そうしたユダヤ人社会の中から生じてきた」(p.275)と著者は言います。
ファリサイ派グループに女性がいたという説については、著者はある文献の二頁を参照したようです。この研究がどれほど信憑性があり支持されているのかは、わたしには判断できませんが、興味深い考えではあると思います。女性が参加するグループの中からイエスの神の国運動が生じてきた、というのも気になる見解です。
「マグダラのマリアは使徒として遜色のない人物だった」(p.283)。これもそういう可能性を否定できません。しかし、断定するよりも、女性の抑圧された状況に照らして読めば、そのような想像(空想ではない)ができる、と記した方が、文章としての誠実さが伝わってきたのではないでしょうか。
いずれにしろ、男の視点で男の登場人物だけしか見ない一方的な聖書の読み方、研究を打破するきっかけとなりうる一冊だと思います。