ぼくは、傷つきやすい人間である、あるいは、自分は傷ついたと思いやすく、自分が傷ついていると思うことに気持ちのよさを覚えてしまう人間である、と思います。
ですから、数十年前、この本のタイトルにも強く惹かれたのだと思います。
しかも、自分が傷ついている人間、憐れまれるべき人間である、と同時に、人を癒す人である、という二重の、心地よい響きがここにはあります。
そうやってナウエンに触れ、何冊か読んできて、しかし、彼は多作なので読み切れずにいたところに、この本が出て、ここにはナウエンの全体像があることを期待して、手にしました。
しかし、惹かれるのは、やはり、傷の部分です。ナウエンの中心には傷があるからかもしれませんが。
「ナウエンは近しい人たちとの「完全な一致」「完全な理解」「完全な愛」という、やや子どもじみたものを人間関係に求めていました」(p.91)。
「どこか私の心の中、相手に完全な愛情、無条件の愛、最高の満足を要求する気持ちがあるに違いないのです。私はいつも完全に人から受け入れられていることを期待していて、その期待をほんの些細な事柄にも求めてしまうのです。どんな取るに足らないことにでも、完全に受け入れられることを期待しているので、何でもない拒絶も、衝撃的な絶望感と、決定的な自信喪失をたやすく招くのです」(ナウエン、「ジェネシー・ダイアリー」より)。
このようなナウエンの傾向が、著者が言うように「やや子どもじみたもの」であるなら、子どももナウエン同様に「完全な理解」「完全な愛」を求めて、そして、得られず、傷ついているのかもしれません。
ここで、イエスは「神の国はこのような者たちのもの」(マルコ10:14)、このように傷ついた者たちのものと言ったのかもしれません、というのは強引でしょうか。
「彼は傷を抱えながら、むしろだからこそ、神を探し求めていました」(p.40)。
これは、その通りだと思います。
しかし、「孤独は他者の痛みを癒す創造的な源になりうる。つまり、私たちは傷ついているからこそ人々に奉仕できる」(p.23)というのは本当でしょうか。
そういう人もいるのでしょう。でも、ぼくは、他者の痛みを癒したり、奉仕したりしているとは思えません。やさしい心など持ち合わせていないのに、そのようなふりをして、善人になろうとするぼくがいるだけです。
「イエスの人生そのものが未完であり、不完全さを負っていたのです。ナウエンはそこに、不完全である私たちの姿を見たのです」(p.70)。
イエスの人生が不完全、つまり、傷を負っていたということは大きな慰めです。
傷ついているがゆえに癒し人になれるのは、イエスだけではないでしょうか。
「もしかすると私は神と語り合うよりも神について話していたのではないでしょうか」(ナウエン、「ジェネシー・ダイアリー」より)。
ナウエンのこの言葉には、はっとしました。ぼくも、インマヌエルとかアガペーとかいう言葉の慰めについては話をしますが、インマヌエルの神自身と、アガペーの神自身と語り合っていないからです。ぼくが、傷ついてはいるけれども、癒し人ではないことは、これにも関係しているのかもしれません。
「ナウエンはそこで、イエスの呼びかけに従うには、特定の親密さの中にではなく、仲間たちとの共同生活の中にその導きを見つけなければならないと気づきます。自分の外に偽りの神を探すのではなく、自分の「内なる聖所」に神を探し求めるということです」(p.127)。
何でも自分を肯定してくれる人によって自分の傷を癒そうとしてはならないのかもしれません。共同生活は、理解される生活というよりも、人には理解されないことを自分が理解し、その上で、他者を尊重する生活のことなのかもしれません。何でも肯定してくれる人を求めることは、その人を神の代わりにしてしまうことなのです。
傷の癒しは、何でも自分を肯定してくれる人との親密な関係にではなく、それに頼らず、心の内にいる、自ら傷ついた神との出会いと語り合いにあるのではないでしょうか。
神の言葉を聖書で聞く、インマヌエル、アガペーという神の言葉を聞くことはあっても、神と語り合うということは、ぼくにはよくわかりません。
「かつてカトリック教会には、洗礼を受けた人だけが救われるという考えもありました。しかしナウエンはそうではない。洗礼を受けていようといまいと、神の存在を信じていようといまいと、必ず何らかの形で神の愛が届く。人間は必ず大いなる存在を求め、その愛を知覚する能力を持っている。そういう素朴な信仰をナウエンは持っていたのです」(p.67)。
「ナウエンは、すべての人が滅びることなく救いへと導かれることが、言ってみれば「神のみ旨」だと伝えているのです」(p.67)。
まったくその通りだと思います。