819 「汝生命を奪うなかれ」・・・「旧約聖書における自然・歴史・王権」(山我哲雄、2022年、教文館)

本書には五つの論文が含まれていますが、そのうち、「旧約聖書における自然と人間」「旧約聖書ユダヤ教における食物規定(カシュルート)」「旧約聖書における「平和(シャローム)」の概念」の三つから、大切に思われた点について以下に記します。


(もう二つ「ナタン預言の成立」と「申命記史家(たち)の王朝神学」は聖書のテキスト批判の議論が煩雑過ぎて、結論部しか読みませんでした)

まず「旧約聖書における自然と人間」から。

旧約聖書では人間が自然を支配することが言われていますが、この支配は無制限でも恣意的でも暴君的でもない、と著者は言います。

 

創世記1章には「種を持つ草と種を持つ実をつける木を、すべてあなたたちに与えよう。それがあなたたちの食べ物となる」(29節)とあり、肉食、つまり動物を殺すことは認められていなかった、と言うのです。

肉食は、大洪水後にはじめて許されますが、しかし、「肉は命である血を含んだまま食べてはならない」(9:4)とあり、命を奪うことへの躊躇が促されています。

 

洪水物語では、「すべて肉なるものを終わらせる時がわたしの前に来ている。彼らのゆえに不法が地に満ちている。見よ、わたしは地もろとも彼らを滅ぼす」(6:13)とあり、現代の生態系の危機は人間の不法の結果であることにつながっていると理解されます。

ヨブ記39章は「お前は岩場の山羊が子を産む時を知っているか。雌鹿の産みの苦しみを見守ることができるか」(1節)など、人間は自然界の主ではなく、また自然界は人間の理解や支配を超えたものであることを思い出させ、自然への畏怖と敬意を呼びかけていると読むことができます。

たほう、「神の似姿としての人間」という観念は、神の創造した「極めて良い」世界を守る責任が人間にあることをも表している、と著者は言います。

 

つぎは、「旧約聖書ユダヤ教における食物規定(カシュルート)」から。

 

複雑なユダヤ教の「食べてよい」食物体系(カシュルート)を著者は以下のように「単純化」しています。「一つが「清い」動物の肉のみを食べ、「穢れた」とされる動物の肉を忌避すること、二つ目が食べてよい動物でもその血を摂取してはならないこと、三つ目は食べてよい動物の肉でも乳製品と一緒に食してはならない」(p.46)。

 

このうち、二つ目の禁止の理由は、先にも引用した「肉は命である血を含んだまま食べてはならない」(創世記9:4)にあり、「血の摂取の禁止はあくまで生命への敬意とそれが神の占有物であるという神学的な観念」(p.52)であると著者は言います。

三つ目の禁止の理由としては、これを親子の命を同時に奪うことに重ね、「動物に対する共感、愛護の精神を読み取ろうとする」説、また、「生命を育むものの象徴である乳の中に、死の象徴である食用の肉を入れること(生と死の混合)への違和感があるとする見方」(p.56)を著者は紹介しています。

そして、一つ目の「穢れた」とされる動物の肉の忌避にも、「生命を尊重し、死との関り合いの濃いものを避けようとする無意識的な感覚が通底しているように思えてくる」(p.65)と著者は述べています。

さいごに、「旧約聖書における「平和(シャローム)」の概念」から。

 

著者は、シャロームには、現代のわたしたちの感覚にはなじめないものもあったことを指摘しています。

 

たとえば、カナンの地を手に入れるための戦闘もシャロームをもたらすものと考えられた時代があったと。

 

けれども、「あなたの神、主が嗣業として与えられる諸国の民に属する町々で息のある者は、一人も生かしておいてはならない。あなたの神、主が命じられたように必ず滅ぼし尽くさねばならない」(申命記20:16-17)というような戦闘を促すような考えよりも、「主があなたたちのために戦われる。あなたたちは静かにしていなさい」(出エジプト記14:14)のような考えが優勢になっていったと著者は言います。

 

また、「主はあなたの右に立ち/怒りの日に諸王を撃たれる。主は諸国を裁き、頭となる者を撃ち/広大な地をしかばねで覆われる」(詩編110:5-6)のような個所は、イスラエルが他国を支配下に置くと言う考えが透けて見えるが、それは、預言者たちによって克服されて行ったと著者は述べます。

 

預言者たちにとって、イスラエルの未来は、自らの罪を真摯に認めて神の裁きを甘んじて受け、その侵犯の彼方にある神の赦しと恵みを信じ、それに委ねること以外になかったのである。それゆえに預言者たちは、武力・軍事力に頼って自己の存続を確保しようとするあらゆる企てを戒める」(p.108)。

イスラエル預言者たちは、神中心的な視点から世界史を捉えることによって、事実上、宗教的な信念に基盤を置く武装放棄の観念、すなわち、――自衛的なものを含めた――戦争否定の思想に到達したのである」(p.109)。

「宗教的な信念に基盤を置く武装」を放棄するのか、「宗教的な信念に基盤を置いた」「武装放棄の観念」なのか、わからないのですが、いずれにせよ、預言者のシャローム概念からは武装は放棄されたのです。ですから、軍事による平和などはありえないのです。

 

この武装解除の観念は、「わたしはエフライムから戦車を/エルサレムから軍馬を絶つ。戦いの弓は絶たれ/諸国の民に平和(シャローム)が告げられる。彼の支配は海から海へ/大河から地の果てにまで及ぶ」(ゼカリヤ9:10)、あるいは、「主は国々の争いを裁き、多くの民を戒められる。彼らは剣を打ち直して鋤とし/槍を打ち直して鎌とする。国は国に向かって剣を上げず/もはや戦うことを学ばない」(イザヤ2:4)に行き着きます。

あるいは、「彼が刺し貫かれたのは/わたしたちの背きのためであり/彼が打ち砕かれたのは/わたしたちの咎のためであった。彼の受けた懲らしめによって/わたしたちに平和が与えられ/彼の受けた傷によって、わたしたちはいやされた」(イザヤ53:5)にたどり着きます。

著者はこの流れを説得的に描き出しています。


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