773 「旧約聖書には人間と神以外の人格が存在する」・・・「旧約聖書と環境倫理: 人格としての自然世界」(マリ・ヨアスタッド (著)、魯 恩碩 (翻訳)、教文館、2023年)

誤読ノート773 旧約聖書には人間と神以外の人格が存在する」

 

旧約聖書環境倫理: 人格としての自然世界」(マリ・ヨアスタッド (著)、魯 恩碩 (翻訳)、教文館、2023年)

 

 旧約聖書にみられる以下のような記述は、擬人法ではない、と著者は言います。

 

「国が打ち捨てられ、あなたたちが敵の国にいる間、土地は安息し、その安息を楽しむ」(レビ記26:34)

「天よ聞け、地よ耳を傾けよ、主が語られる」(イザヤ1:2)

 

「もろもろの星は天から戦いに加わり、その軌道から、シセラと戦った」(士師記5:20)

 

「とどろけ、海とそこに満ちるもの、世界とそこに住むものよ。潮よ、手を打ち鳴らし、山々よ、共に喜び歌え。主を迎えて」(詩編98:7-9)

 

 擬人法ではないなら、どういうことなのでしょうか。

 

「わたしは旧約聖書全体を通して、著者たちが動物以外の自然を活動的で生きているものとし、つまり、人格として見ていたことを論証する。動物以外の自然とは、人間と動物を除く宇宙のすべての要素、つまり現代西洋でいうところの無生物的な自然を指す」(p.11)。

 

 「人格として見られていた動物以外の自然」とは何のことでしょうか。

 

「自然やその構成要素を原料や風景として見るのではなく、天地、山、木、川を、他の被造物と関わりを持ち、命令を聞き従うことができ、人間の蛮行に抗議し、嘆き、賛美し、人間の歴史に影響を与える被造物として表現しているのである」(同)。

 

 しかし、人間と動物以外の自然では、「嘆き」や「賛美」の表し方が違います。

 「ギルボアの山々よ、いけにえを求めた野よ、お前たちの上には露も結ぶな、雨も降るな」(サムエル記下1:21)。

 

 サウルとヨナタンが死んだときのダビデの山々や野への呼びかけです。人間は涙や泣き声で、しかし、大地は露や雨で湿ることのない乾きで、人の死を悼むのです。

 

「天は神の栄光を物語り、大空は御手の業を示す」(詩編19:2)

 

 これも擬人法ではないと著者は言います。

 

「天は本当にコミュニケーションを行っているが、人間とは異なるコミュニケーションの手段を使っているのである・・・(詩編19:2は)人間のためのものではない(空の)話し方を描写している」(p.229)(引用内の( )内は引用者による補足)

 

 擬人法との違いを述べるのに、著者は、「パースペクティヴィズム」という語を用います。

 

「パースペクティヴィズムとは、すべての人格は世界を同じように経験するが、それは異なる身体によって行われるという考え方である」(p.176)。

 

 ここで言う人格には、星や大地なども含まれます。

 

「擬人化というのは、人間ではないものに人間の属性を押し付けることだ。人間であることが基本であり、人間でないものに人間の特性を適用することは反実仮想的であるという前提のもとにこの言葉はなりたっている・・・パースペクティヴィズム的な存在論を持っている人は、人間の経験を決定的なものとみなさない」(p.176)。

 

「パースペクティヴィズムによる世界との関わりは、すべての人格が自分の身体に適した方法で世界と出会うという考えを前提としているのだ。エレミヤが天に対して「恐れおののけ……」と呼びかけるとき、著者は天を擬人化するのではなく、被造物の秩序全体かYHWHに対する背信を嘆いているという確信を表明しているのである。ゼカリヤ書11章にある木々の嘆きは、すべての人格が自分の命を大切にしていることを確認するものである。被造物の秩序の各部分は、その「体」に応じて、異なる反応を示す。人間が慟哭し、粗布を着て、塵を頭にのせている間に、天は暗くなり、水分を蓄える」(p.177)。

 

 では、旧約聖書のこのような自然観から、わたしたちはどのような教訓を得るのでしょうか。

 

預言者たちが私たちに課した課題・・・私たちは、生態系的な黙示録を食い止めるだけでなく、動物や木々、牧草地が私たちを受け入れ、私たちと一緒に暮らすことを喜んでくれるような生き方をしなければならない」(p.200)。

 

「私たちは、気候変動を回避できる段階を過ぎており、原始時代に戻ることはできない・・・私たちにできることは、危機の範囲を限定することであり、そのために役立つのが預言書である。預言書は、私たちに原生地域保護や環境保護に従事するように求めるのではなく、良き隣人になるように求めている」(同)。

 

 これは原生地域や環境を守らなくてもよい、という意味とは違うでしょう。人間はこれらに対して、「保護する」という優越意識を捨てよ、保護者ではなく隣人になれ、ということでしょう。

 

 訳者も本書の意図を以下のように述べています。

 

「すべてのものが生きていて、すべてのものが人格であり、その一部のみが人間であるという新アニミズム的な世界観が旧約聖書の根底に横たわっているという本書の主張に訳者は衝撃を受けた」(p.312)。

 

 「すべてのものが生きている、人格である」とは人間や動物や植物、生物以外のものを含むすべての被造物のことでありましょう。

 

 けれども、これは、汎神論でも、被造物の神格化でもなく、「大地や山や川を・・・共に神を賛美する仲間として捉える」(p.312)ことなのです。

 

 「自然との関係性や自然の多面性を重視する「新アニミズム」という考え方は現代社会の人間中心主義を乗り越えるための処方箋として注目を浴びている。このような時代にこそ、我々は偏見と先入観を捨て、五書、預言書、そして諸書という奥深い古代の文献に秘められた自然観と環境倫理を新たな視点から再吟味するべきであると本書は語りかける」(同)。

 

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