旧約聖書は一神教である。たいていの人はそう思っているだろう。
しかし、著者は、旧約聖書学の最新成果を踏まえて、旧約聖書全体に一神教が完全に貫かれているわけではない、「唯一神的神観が最も集中的に見られるのは、イザヤ書四三-四六章である」(p.340)と言う。
「わたしは神、ほかにはいない。わたしは神であり、わたしのような者はいない」(イザヤ46:9)。
これは、神はこの神以外には存在しない、という意味である。これに対し、神は複数存在するが、この神だけしか拝んではならない、というのを、拝一神教と言う。
「あなたには、わたしをおいてほかに神があってはならない」(出エジプト記20:3)。
十戒のこの項は、神はただこの神一人しか存在しない、と言っているように理解される場合がほとんどだろうが、著者は、これも拝一神教的だと言う。神は多数いても、あなたをエジプトから解放した神以外を拝んではならない、と解釈するのだろう。
旧約聖書はイスラエル民族の何百年の歴史を通して、徐々に編纂されたものである。その間、後の時代の信仰者が前の時代の書いたものを書き直す場合もあり、旧約聖書の最新版であり(と言っても最後の書き直しから二千年は経っている)現代わたしたちが使っている旧約聖書にも、書き直しの痕跡が残っている。
最初から唯一神教であったのではない。聖書を注意深く読めば、一神教とは思えない個所も出てくる。後の時代の信仰者が書き直し損なった部分かもしれない。
しかし、そうした個所を丁寧に分析すれば、民族神信仰(他民族にも神はいるということになる)、拝一神教から世界神、普遍神信仰、唯一神教への道筋を、ある程度推測することができる。
本書では、古代エジプトのアクエンアテンの宗教改革がイスラエルの一神教に関係しているというフロイトの、それ自体はゆかいな説は、むろん否定されている。
そればかりでなく、「ヤハウェ」という神名は、イスラエル民族に当初は知られておらず、したがって、エリヤのような「ヤハウェ」の「ヤ」を含む人名も当初はなく(たしかに、アブラハム、イサク、ヤコブには、ヤは含まれない・・)、しかも、「『ヤハウェ』という語はヘブライ語からはうまく説明できず、おそらくはヘブライ語起源ではない」(p.101)と著者は言う。
「神はモーセに、『わたしはある。わたしはあるという者だ』と言った」(出エジプト記3:14)。
ここを引用して、「ヤハウェという神名には『わたしはたしかにここにいる、わたしはたしかにあなたとともにいる』という意味があります」などとぼくは受け売りで話してきたが、この個所では、出エジプト記の著者か編集者が自分たちによくわからない「ヤハウェ」という名に自分たちに好ましい意味付けをしているらしい。「通俗語源解釈」(p.103)ということだ。
一神教は不寛容で攻撃的であると、これも、最近、通俗的に言われるが、はたしてどうなのか。
一神教に辿り着いたのは、上述の46章を含む第二イザヤという預言者(弟子集団)と著者は推論したうえでこう述べる。「第二イザヤはヤハウェ以外の神々の存在を否定したが、それは自分たちの信念と宗教的価値観を他の人々に押し付けるためではなく、むしろ絶望の支配する逆境に抗して自分たちの信仰と共同体を守るためであった。それは、弱い者が生き延びるための知恵であった」(p.365)。「絶望の支配する逆境」とは直接には、バビロニア帝国に国を滅ぼされバビロンの都で捕囚の身とされたことを指す。
ひじょうに読みやすく、また、読み応えのある一冊だ。
なお、わたしは、学生時代、申命記史家というのがよくわからなかったが、本書では、申命記、第一の申命記史家たち、第二の申命記史家たちが、説得的に述べられている。