著者はキリスト教プロテスタントの西南学院中学で洗礼を受けたという。しかし、彼はキリスト教を広めようとすることはまったくない。むしろ、イスラム教や人間の宗教心一般を尊重する。
それにもかかわらず、この本には、モーセも登場する旧約聖書の精神、ヴィジョン(幻、展望)、そして、イエスのこころに満ちている。
中村哲は、モーセやイエスを語ることなく、モーセやイエスのこころで生きたのだ。しかも、それによって、聖書を伝えようなどという下心は全くない。
荒れ野が潤い、花が咲く。穀物が実る。旧約聖書のもっとも美しい光景である。自然と闘わず、自然に人知を超えたものを見る。イエスのこころである。著者とその何十万人もの友たちは、このこころで水を治めた。
「過酷な自然は、あまりに非力な人間の分限をわきまえさせ、同時に恵みも準備する。人は自分の力で生きているのではない。恩恵によって特別に生かされているのだ」(p.92)。
モーセもイエスも文字通りの荒れ野に生き、そこで自分を生かす神と出会った。
「命を軽んじて天意から離れ、人の分を超えた思い上がりや虚飾は、滅亡に至る道である。与えられた恵みを忘れ、殺戮に狂奔する姿は、哀れである。今、砂漠で田植えを行い、死の谷が命の緑野に変ぼうするさまを見るとき、確たる恵みの実感・・・」(p.109)。
「天意」も「恵み」も「死の谷が命の緑野に変ぼう」も、聖書のモチーフでもあるが、著者が語ると、一宗教に限定されない普遍性を強く放つ。
「自然は人を欺かない。驕慢を打ち砕き、恩寵を垂れる。それを見いだすか否かは、人の側の問題である」(p.147)。
自然災害の被害者が傲慢であったというのではない。砂漠に水を流そうとする事業の中は人間は自然を支配できるという思い上がりがつねに忍び込むこと、それにもかかわらず、自然と調和した治水において、自然は、そして、神は、人に恵みをもたらすというのだ。
「だが、絶望はしない。希望はある。それは温かく人を見守る自然のまなざしの中にある。眼前に広がる鮮やかな麦の緑がその実証だ」(p.151)。
二千年の昔、パレスチナのガリラヤ地方を巡回したイエスの姿を思い浮かべる人がいるだろう。
中村哲は神でもキリストでもない。ただ、旧約聖書の預言者たちやイエスに通じるヴィジョンを持った一人の人間だった。
著者の地元の新聞社の出版のせいか、いきいきとしたカラー写真が織り交ぜられている。心身ともに美しい一冊だ。