818 「神学校に支配されずに牧師になる新しい道」 ・・・ 「オンラインの神学 教える+学ぶ」(オギルビー著、大倉一郎訳、2024年、ラキネット出版)

本書は、オンライン環境での神学教育と学修について論じられています。


その利点として、たとえば、以下のようなことが挙げられています。

 

「オンライン教育は必然的にある環境を作り出せる。学生の人種やジェンダーや民族や障碍や社会的背景を、その学生が情報を公表しない限り他の学生や指導者にまったく知られないようにできる環境だ」(p.19)。

その学生がこれらの情報を公表しなければならないとは思いませんが、これらのことがらはその学生の神学形成において本質的であるようにも思われます。

しかし、以下のような報告もあります。

「アスコーは次のように書いている。「多くのアフリカ系アメリカ人は、オンライン学修の環境で差別がより少ないという経験をすると報告している」」(同)。

 

「オンライン教育は学生と指導教師を共通の基盤に置き、さらに公正かつ公平に学ぶ環境を確保する力を持っている」(同)。

「人種やジェンダーや民族や障碍や社会的背景」を示さないこと・そのものではなく、それを示すか示さないか、選択できることが「公正かつ公平」なのではないかと思いました。

「非本質的要素を取り除き、学修経験のためのより共通の土台をもたらすことで、オンライン教育は学生と指導教師とを障碍を用いて助けるのだ・・・多数の熱心に学ぶ自閉症の学生は、従来のクラスでは、やり方が下手な学生に見えた・・・オンライン環境だと、とても上手くやっているようである」(p.20)。

「障碍を用いて助ける」という表現の意味がわかりませんが、それとは別に、「人種やジェンダーや民族や障碍や社会的背景」や「自閉症」が、「非本質的要素」なのだろうか、むしろ、その人の神学形成の本質ではないだろうか、と思いました。

「マルチメディアのオンライン教育は、視力や聴力に障碍のある学生のために、さらに才能を伸ばす教育の機会を提供できる」(p.22)。

これは、当事者に訊いてみないと断言はできませんが、その通りである可能性があると思います。

「メンタルな障碍を持つ学生のために付け加えて言えば、学生たちはアスペルガー症候群のような状態についてはほとんど意識しないでいられるだろう」(p.22)。

これについても、アスペルガー症候群を抱えていることが「非本質的要素」であるのかという疑問がありますが、同時に、「アスペルガー症候群のような状態についてはほとんど意識しないでいられる」学生たちとは、アスペルガー症候群を抱えている学生のことなのか、それ以外の学生のことなのか、よくわかりませんでした。

 

「オンライン教育は教育への貢献として第一世界の優越を改める助けになる」(p.23)。

これはすばらしいことだと思います。ただし、かつてインターネットは貧者の有効な道具と言われていたのに、いまや世界の金持ちたちの支配手段になっていることを思うと、オンライン教育も資本主義、第一世界に乗っ取られる可能性もあるのではないでしょうか。

ナショナリティエスニシティの間の無益な区別は、オンライン環境の中で無化できる」(同)

授業のファシリテーターや成績評価者が、学生のナショナリティエスニシティによって学生を差別することが無化できるなら、それはすばらしいことですが、授業内での質疑、討論においては、その人のナショナリティエスニシティが発言者や聴き手にとっての本質的要件となる場合が少なくないと思います。

「学生たちは、オンラインの議論だと、制限される経験がずっと少なく、自由にすることにオープンになれる。つまり、学生の考えを率直かつ直截に表現する」(p.53)

これは、著者の経験からの見解だそうです。そうであるなら、よいことだと思います。


「指導や学校を中心化しようとする従来の教育モデルから区別して、学修者中心教育が受け入れられるところでは、オンライン教育は学修戦略を発展させ運営するのを助けるだろう」(p.28)

 

「オンライン神学教育は、神学生が受け身の学修者から省察的実践者(reflective practitioner)に変化するのを助けることが分かる」(p.56)。

「個々の学修コミュティの管理を通じたオンライン神学教育の方法によって、パウロフレイレ(Paulo Freire)がその著作で論じている「銀行型教育」のモデルを打ち破る助けを得られるということである」(p.60)。

これは、わたしにも、オンライン教育の明白な利点に思えます。

 

「神学生が数年間そのコミュニティから隔たってしまうという神学教育のプロセスに代えて、オンライン神学教育によって神学生がコミュニティに地理的に近いまま留まって、神学生が実際的に用いるコンテキストの中で神学教育に参加できるという結果になる」(p.57)。

 

たとえば、小倉の教会共同体に属する学生が東京の神学校で学ぶ場合、現状では、学生は神学校の近くに転居して、小倉の教会共同体の礼拝などの共同体の営みに日常的に参加することが不可能になります。

けれども、オンライン教育ならば、この学生は小倉の教会共同体にとどまり、それまでどおり共同体の営みに参加しながら、同時に、神学教育に参与することができることになります。

ここには、さらに大事な問題が含まれているとわたしは思いました。

東京の神学校に入学した学生は、神学校の導きにより、東京の教会で実習をすることになります。そして、東京に住み、東京の教会に属している神学生であっても、神学校の導きにより(・・・なかには、学校の言うことに従わなくてはならないと感じる学生もいる・・・)、所属や出身教会とは違う教会で実習することになります。

 

神学校の中にも、神学教育、牧師養成は神学校主導と思い込み、神学生の属している教会共同体と学生のつながりではなく、神学校の「教育方針」(・・・たとえば、「出身教会以外の教会で二年間は実習すべきだ」・・・)を優先させようとすることがあります。

つまり、神学校在学中は神学校主導という考え方です。これによって、教会共同体は困惑する場合があります。

オンラインによる神学教育はこれを防げる可能性があるかもしれません。


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