著者は、内村鑑三、高橋三郎らを批判(批難ではない)し、また、青野太潮、大貫隆を援用しつつ、「すべての人は無条件で(信仰なしでも)救われる、救われるとは、神自身が十字架の上で苦しみつつ、苦しむ者とともにおられることである」ということを述べています(とわたしには思われます)。たとえば、災害や戦争で理不尽な苦しみや死を迎える人が(信仰を持っていようといまいと無条件に)神さまは共におられ共に苦しまれる、ということのように思われます。
「信じて救われるのではなく、救われて信じることが、救いと信仰の関わりの事実と私は捉えている・・・「信じる」ことは「救い」の結果なのである。救いに条件はいらない。信仰は恵みの賜物である。信仰は救いそのものである・・・その救いのあり方を私は最終的に「義認信仰」と呼ぶのである」(p.10)。
義認とは、神さまが義でないわたしたちにもかかわらず義と認めてくださり、わたしたちを受け止めてくださることです。それに気づくことが信仰だというのです。つまり、信仰を持つときには、すでに救われている、というのです。
「私共は、復活ということを、弱さから強さに変わることだと勘違いをしていないでしょうか。真の復活とは、愚かなまま、弱いままで強められることなのであります」(p.30)。
自分の抱える、あるいは、余儀なくされている弱さに苦しんでいる方がたの中には、このような言葉をにわかに受け入れられない方がおられても、当然だと思います。
ただ、この背景には、ある種の「強さ志向」への警告もあると思われます。
「無教会においても、優秀な人・出世した人が優れた信仰者としてほめたたえられる場合が、多いようにも思えます」(p.30)。
これは、無教会だけでなくキリスト教界全体にも見られるのではないでしょうか。
「無教会信徒は、もはや強者の論理からは卒業した方がよいであろう。それは強く光り輝く
復活理解からの卒業でもある」(p.34)。
最初のセンテンスもキリスト教界全体にもあてはまるでしょう。ただ、二番目のセンテンスはいかがでしょうか。たとえば、この世で苦しめられている奴隷たちがまばゆい復活の信仰を抱くことは信仰のあり方の大事な道のひとつではないでしょうか。「神さまは苦しんでいるわたしたちとともにいてくださる、わたしたちは苦しむままだけど、それでも救われている」という道だけではないと考えます。
ただ、著者の言いたいことは、つぎのような表現の方が伝わりやすいでしょう。
「ほんとうの神は、全ての人に、強くならなくてもよい、弱いままでよい、ありのまま、そのままでよい、私があなたをそのまま受け容れ義(よ)しとしよう、と語りかけて下さる神である。それが「信仰義認」の神なのであろう」(p.105)。
副題にもあるように、本書では「贖罪信仰」を克服するものとして「信仰義認」さらに「義認信仰」が述べられています。
著者は「贖罪信仰」を「強さの論理」と結びつけていて、それを克服しようとしているようです。
しかし、著者自身も、「贖罪信仰も・・・共に歩むべき信仰です・・・贖罪信仰自体を否定しては(ママ)いるものではございません」と書いておられます。
贖罪信仰か義認信仰かという選択だけでなく、自力救済か他力救済かという考え方もあると思います。自力救済とは自分の善い行いによって自分を救うというもので、「信じれば救われる」も、信じるという自分の善い行いで自分を救うということだとも考えられます。他力救済とは神の一方的な恩寵(恵み)によって救われるということです。
その意味ですと、人間は自分で罪を贖えず神自らがイエス・キリストの十字架によって罪を贖ってくださった、というキリスト教の信仰にも、他力救済の要素もあると思います。
また、「義認信仰」の「義認」とは「義と認める」ということですから、義でない者も義と認める、と言ってみても、人を義か不義かにわけるということから自由になり切れていないように思われます。
そうであれば、著者の主張は「神は人を分け隔てすることなく共に苦しむ、それが救いだ」ということですから、「無差別共苦信仰」というような表現もありうるのではないかと思いました。