710 「2023年2月、日本語で読める最良の神学概論」 ・・・ 「21世紀のキリスト教入門 一つの教会の豊かな信仰」(フスト・ゴンサレス、教文館、2022年)

 

 「『キリスト教』入門」とありますが、『キリスト教神学』の入門書、神学初学者向けテキスト、神学の土台にもなりうる一冊です。

 

 「教会の信仰の大枠、言い換えれば、教会の一致の土台を示しながら、さらに、その中で多様性を受け止めようという姿勢をゴンサレスが示しているのも重要」(p.217)と訳者が述べている通りです。

 

 本邦訳の副題の「豊かな」はこの「多様性」を意味しているのでしょう。さらに、「大枠」「土台」とあるのは、ゴンサレスが歴史におけるキリスト教信仰の公約数(伝統的信仰)に立っていることを意味しているのでしょう。「一つの教会」とは人間の組織としてのどこかの教会のことではなく、目に見えない神の教会、イエス・キリストの教会のことでしょう。

 

 キリスト教の基本的信仰、多様性の受容に加えて、本書にも垣間見られるゴンサレスの特徴をもうひとつあげるならば、それは、「貧しい人びとの解放」です。

 

 つまり、ゴンサレスは、21世紀のキリスト教信仰は、伝統的信仰に立ちながらも、多様性の相互承認、苦しめられている人びとの救いがポイントとなる、と言っているのではないでしょうか。

 

 ところで、神学とは何でしょうか。「精神や理解が信仰生活に場所を持たないというわけではありません。逆に私たちの主イエス・キリストが教えてくださったのは、第一にして最大の戒めは、精神を尽くして神を愛することが含まれているということです。わたしたちを信仰へと導くのは精神の事柄ではありません。むしろ信仰が神の御心に従って私たちの精神を用いるようにと、私たちを導くのです」(p.6)。

 

 ここでの「精神」は「理性」さらには「神学的な表現」と言い換えることができるでしょう。信仰そのものは理性や神学的表現よりも霊性の領域ですが、それを言葉にして、さらには、体系的に言い表すことが必要な場合もあります。それが、霊性や信仰を深めてくれることさえあるでしょう。

 

 この本も信仰や霊性を、なんとか理性で言い表そうとする営みの一環、つまり、神学作業の一環であり、その意味で、さきほど「神学入門書」「初学者用テキスト」「神学の土台」という言葉を使いました。

 

 ゴンサレスは神学の出発点の一つを「精神を尽くして神を愛する」という聖書の言葉に置きます。つまり、神学とは「理性を尽くして」「神を愛する信仰」を表現することなのです。その意味で、この本は、キリスト教入門であると同時にキリスト教「神学」入門なのです。

 

 「教会は、聖書的な愛が実践され、それが教会の中に示されているときにこそ、真に聖書的なのです。すなわち、教会の中で神の恵みが経験されるとき、教会が貧しい人々にと苦しんでいる人々に心を寄せるとき、教会の中で約束された神の支配が垣間見えるときに、教会は真に聖書的な存在なのです」(p.51)。

 

 キューバ生まれ、プエルトリコでの神学教育の経験、アメリカ合衆国でのヒスパニック(ラテンアメリカ系の人々)宣教といった経験を持つゴンサレスが「貧しい人々」という時、ラテンアメリカの「解放の神学」の「まず貧しい人々から」(preferential option for the poor)という神と教会の指針を示す言葉を意識していると考えられます。これは、経済的な貧しさに加えて、政治や人種、民族、性、身体の状態などによって苦しめられている人びとを含みます。

 

 三位一体については著者はこう述べています。「一方ではこの教理は私たちが三人の神々を信じることから守る塀となり、他方では私たちが三つの位格を混同してはならないということを忘れないようにさせているのです」(p.65)。

 

 この叙述は著者が伝統的なキリスト教信仰に立っていることを示しています。その上で、著者は20世紀神学の成果を継承してこうも述べています。「三位一体の教理に対し、それがあたかもパズルや解決不可能な矛盾ででもあるかのように向き合うよりも、神がひとりであり、しかも同時に神は愛であると私たちが言明するときに意味している事柄を理解する仕方として、この教理を捉えるべきなのでしょう」(p.66)。

 

 では、三位一体の教理は「神は愛である」ことをどのように言い表しているのでしょうか。「神が一つであるという意味において一つであるということは、自己の統一のうちに愛が存在するような仕方で自らと関わるということです。父・子・聖霊の間における愛はそのようなものであり、三つは一つなのです。愛はそれほどまでに重要なもので、神のただ中において活力に満ちた愛の働きがあるほどなのです」(p.67)。

 

 つまり、一つの神の中では、父・子・聖霊という三つの位格がたがいに愛し合っている、三つの位格は愛によって統一され一つの神である、一つの神のなかでは三つの位格が愛し合い統一されている、ということなのです。それゆえに、神は愛であり、さらに、神の本質であるこの愛は、人間や被造物にも向けられ、さらに、人間同士の愛もこの神の愛/愛の神に基づく、というのです。

 三つの位格は三つの位格のままでひとつとなるのと同様に、歴史上な多様なキリスト教会は多様なままで、ひとつの目に見えない教会、イエス・キリストの教会をなしているとも言え、ゴンサレスの多様性の受容は三位一体の信仰とその教理にも土台をもっているのでしょう。

 

 「北極圏の氷河が後退し地球の温暖化が進んでいるのは、私たちが悪しき管理人であるからです。大気が汚染され、海洋に有毒物質が流れ込み、土地の分配が公正になされていないのは、私たちが悪しき管理人であるからです」(p.85)。

 

 土地の分配の不公正への言及は、ゴンサレスが「解放の神学」と近いところにいることを想わせます。現代世界の問題は、人が生きられなくなるほどの環境破壊、その際にまっさきに被害者になる人々がそれ以前から置かれている貧困、そして、軍事拡大、この三つの集約される、と言う人がいますが、ゴンサレスもそれに近い認識だと想像します。

 

 「キリスト教において、贖罪の教理以上に重要な教理はありません・・・贖罪の教理は主張します。私たちの罪と曲がった生き方にもかかわらず、神がなおも私たちと他の被造物すべてとを愛してくださっている、と」(p.89)。

 

 「解放の神学」をも背景にしていると思われるゴンサレスが「贖罪の教理」を最重要視するのは意外に感じる人もいるかもしれませんが、彼の贖罪の教理重視は、神による無条件の救い、徹底的な恩寵主義に根差しています。

 

 「ルターは、義認は人間の勤めではなく、神の御業によるものであり、それを私たちが自分のものとし、信仰を通じてそれに信頼するのであると結論するに至りました。信仰が私たちを義とするのではありません。むしろ、信仰は予期しえぬ神の恩寵による判決、私たちが罪から解放されているとの判決に対して私たちの耳を開かせるのです。繰り返しますが、義認は私たちが行う何事かではなく、神が私たちのためになされることであるのです」(p.104)。「私たちの信仰が私たちを救うことになるというのではありません。私たちを救われるのは神であり、信仰によって私たちは神による救いを見、それを受け入れ、その約束に安んじるようになるのです」(p.104)。

 

 そうすると、新約聖書の「ローマの信徒への手紙」3章22節の「信じる者すべてに与えられる神の義」という言葉はどうなるのか、と首をかしげる人もいると思いますが、ゴンサレスは「ローマの信徒への手紙」全体から、そして、おそらくは、20世紀の神学者カール・バルトらの影響もあって、このように解釈しているのでしょう。

 

 予定の教理についても、ゴンサレスは同様の理解を示しています。かつて、予定の教理を、「神は、救われる人と救われない人を、あらかじめ決めている」というようにとらえている人が少なくなったそうです。

 しかし、ゴンサレスはこう言います。「予定とは、ただ単純に、もし私たちが信じるとすれば、それは第一義的に神の御業によるのであって、義なる者としての私たち自身の決定によるのではないという主張です・・・予定の教理は、私たちの自らの信仰が奢り高ぶること、あるいは私たちは信仰を抱かない人々よりも価値があると考えることを不可能にします」(p.106)。

 

 つまり、予定の教理とは、予め救われる人と救われない人が決まっているという教理ではなく、神は一方的な愛(人間の側に、善行、義などの救いの条件を求めない・・・)によって人を救う、人の信仰も自分の決心ではなく神の救いの結果である、という教理だと言うのです。

 

 「古代キリスト教会において、人々が何か「カトリック」なものについて語るときは、多様な見方があることが意味され・・・その多様な見方が話題となっている事柄の全体像に対して奥行きを与えていました・・・四福音書は一つとなって、その多様性において唯一の実在を証ししている」(p.138)。

 

 「○○による福音書」の「による」はギリシャ語で「カタ」であり「カトリック」という語にもつながるとゴンサレスは言います。そして、「「~による」という表現は、唯一の福音の理解をめぐる視点や解釈の多様性を示しています」(p.138)と言います。

 つまり、四つの福音書は、イエス・キリストにおける神、という「唯一の実在」「唯一の福音」を語っていますが、その「見方」や「視点」や「解釈」は多様である、と言うのです。三位一体の神自身が三つの位格という多様性を内包しているように、聖書もまた多様性によって、一人の神、一人のイエス・キリスト、一人の聖霊を示している、と言うのです。

 

    礼拝についても「私たちが守っている多様な形態の礼拝はすべて、同じ玉座に向けられている」(p.150)と述べています。洗礼についても、同様に、多様性の視点から理解しています。「成人にのみ洗礼を授ける慣行は、全教会の前で、神の恵みを主体的に関与する仕方で受け取る必要があると証言するものであるのに対し、幼児に洗礼を授ける慣行は、救済における恵みの優越を証言する者であるのです。いずれもが正しく、もちろん教会は両方の証言を必要としています」(p.178)。

 

     終末論については、ゴンサレスはそれは希望であると言い、「このキリスト教的希望は、たとえこの世界にいかに多くの悪がはびころうとも、またいかに多くの困難が私たちの前に立ちふさがろうとも、私たちの将来が神の御手の中にあると告げるのです」(p.205)、そして、神がかならず救済してくださるという希望は、「私たちに対して、将来起こることを知っている者として生きるようにと促すのです」(p.206)と述べています。

 

    つまり、神が最後にはかならず救ってくださることを知っている者は、今から、それにふさわしい生き方をするように促されているというのです。たとえば、「人と人とが愛し合い、平和に生きる世界を神さまはかならず実現してくださる」という希望と信仰を持っている者は、いまから人と愛し合い、平和に生きるように導かれている、礼拝における平和の挨拶(「主の平和がともに!」)はそのしるしである、「神さまが私をこの苦しみからかならず救い出してくださる、喜びに導き入れてくださる」という希望と信仰を持っている人は、今から喜んで生きるように支えられているというのです。

 

    キリスト教の歴史の中で民が伝えてきた伝統的信仰、そして、多様性、苦しむ人びとの解放。まさに21世紀中盤にふさわしい神学書ではないでしょうか。

 

https://www.amazon.co.jp/21%E4%B8%96%E7%B4%80%E3%81%AE%E3%82%AD%E3%83%AA%E3%82%B9%E3%83%88%E6%95%99%E5%85%A5%E9%96%80-%E4%B8%80%E3%81%A4%E3%81%AE%E6%95%99%E4%BC%9A%E3%81%AE%E8%B1%8A%E3%81%8B%E3%81%AA%E4%BF%A1%E4%BB%B0-%E3%83%95%E3%82%B9%E3%83%88%E3%83%BB%E3%82%B4%E3%83%B3%E3%82%B5%E3%83%AC%E3%82%B9/dp/4764267594/ref=sr_1_1?__mk_ja_JP=%E3%82%AB%E3%82%BF%E3%82%AB%E3%83%8A&crid=FA13XRAOHJAU&keywords=21%E4%B8%96%E7%B4%80%E3%81%AE%E3%82%AD%E3%83%AA%E3%82%B9%E3%83%88%E6%95%99%E5%85%A5%E9%96%80&qid=1675984042&sprefix=21%E4%B8%96%E7%B4%80%E3%81%AE%E3%82%AD%E3%83%AA%E3%82%B9%E3%83%88%E6%95%99%E5%85%A5%E9%96%80%2Caps%2C342&sr=8-1