小中高生や青年に信仰を伝えるヒントはないかと期待しつつ、読み進めた。
「人間ではなく、目に見えず、私たちの知らないところで世界に作用している行為者(つまり隠れた行為者)の存在に、私たちは敏感である。この能力によって、神について考えることが非常に容易になる。この能力が乳幼児期から備わっており、少しの刺激でも行為者を発見したり、行為者による行為として考えたりする傾向が強いため、とても幼い子どもでも神という概念を受け入れることができるのである。もし子どもが神の概念を教えられなかったとしても、自然界にデザイン(本書ではデザインという言葉を、何かしらの意図がある存在によって設計されているという意味で用いる)や目的を見出すような傾向も持ち合わせれば、自ら神を発見するだろう」(p.40)。
雨、風、花といった「少しの刺激」によっても、子どもはそこに行為者を「発見」つまり見出したり、想定したりする傾向がある。それゆえに、子どもたちは神を信じる、と言うのだ。
けれども、これがそのまま、宗教の信仰の体系(キリスト教で言えば、贖罪論、三位一体論など)の受容に一挙につながるわけではない。
「私は本書を通して、近年得られた科学的なエビデンスは、子どもが多くの主要な宗教的に信念――とりわけ超自然的存在に関する信念――への受容性を自然的に発達させることを示している、ということを伝えようとしてきた。周囲の環境の助けがほとんどなくとも、子どもは超人間的行為者を信じるようになるのだ。しかし、この宗教的考えへの自然的受容性には限度がある。宗教的な専門家が発展させ、多くの信仰者が歴史的な信条の一部として受け入れているような多くの神学的な考えは、子どもが自然的に獲得する傾向のあるものには含まれない。むしろ、こうした神学的信念(前述の非時間制や非空間性など)は子どもにとって(また大人にとっても)概念的に難しく、うまく広まるためには特別な文化的土台を必要とする」(p.130)。
仮に、キリスト教につぎのふたつのタイプがあるとしよう。
A 聖書の言葉をそのまま事実として理解し、神、人間、世界、救い、歴史というものが、言語や論理によって言い表せるとする。それは、一般には隠されていることであっても、知っている者は、言葉や論理で表現できるものである。
B 聖書の言葉には、神、人間、世界、救い、歴史というものについての真理が含まれているが、書かれている言語の表層がすべて事実であるとはしない。言語以前の世界、論理より深い世界があり、人間はそれを直感したり、垣間見たりすることはあっても、言語化、論理化、体系化はできない。
著者が述べている子どもの傾向には、自然界にBのようなものを予感しても、Aのように言語化して、言い切ってしまう限界があるのではなかろうか。
とは言っても、Bにも、Bのような事柄はAのような言語で語るしかないという限界があるから、BがAよりも優れた信仰であるとも言えないだろう。
子どもは、わかろうとする過程にあるから言語化せざるを得ない。しかし、わからない、わかってはならない、言語化できない、という道をやがて歩む者もいるだろうし、その根っこは子ども時代からあったということもありうるだろう。