人間は神の前で罪人である。人間は自分の力では罪から救いへと行くことはできない。ただ、イエス・キリストにおいて現れた神の恵みによってのみ人間は救われる。パウロの言う救い、ひいては、聖書の伝える救いとは、そのような「無償の贈り物」である。アウグスティヌスもルターもバルトもこの系譜にある。
ぼくはこのように考えてきました。そして、これは他力救済(超越者による救済)であり、自力救済(人間による自己救済)ではない、パウロは律法を守ることで救われようとする自力救済を否定して、神の恵みのみによる他力救済を訴えたと。
ところが、この本によると、パウロはユダヤ教の律法遵守を自力救済として批判しているのではない、ユダヤ教は自力ではなく恵みの宗教である、ということです。
ぼくのようなパウロ理解は、ぼくのオリジナルではなく、プロテスタント神学には珍しくないものですが、この本は、それとは違うパウロ解釈、つまり、「パウロ研究の新潮流」にある神学をその源流から最新のものまで紹介してくれています。
本書によると、「パウロ研究の新潮流」(NPP)の特徴は、「ユダヤ教もまた神の先行的恩寵に基づく宗教であり、モーセ律法の遵守は救われた後の神の恵みへの応答である、というユダヤ教理解に立つ」「パウロのモーセ律法に対する批判は、救いのためには行いが不可欠だとするユダヤ教への危惧からではなく、律法をユダヤ人と異邦人の間の壁として用いようとするユダヤ教の民族主義的な在り方に向けられたものだと理解する」(p.14)ことにあります。
つまり、「パウロが戦っていたのは善い行いをしなければ天国に行けないと唱えたユダヤ人ではなく、救われるためには異邦人もユダヤ人のように生きなければならないと主張したキリスト者だった」(p.18)のです。ここで言うキリスト者は、むろん、異邦人キリスト者ではなく、律法遵守(とくに、割礼と食物規定)ユダヤ人キリスト者、あるいは、それに同調した異邦人キリスト者のことです。
本書では、バウル、シュヴァイツァー、デイヴィス、ケーゼマン、サンダース、ダン、ヘイズ、ライト、キャンベルらのパウロ研究の要点が述べられていますが、ぼくには、バークレーの考えが興味深いです。
「バークレーは、パウロの時代の人々にはそのような無償の贈り物という考えはなかったと諭します」(p.197)。「「見返りを求めない神の恵み」という思想はローマ書にはない、とも指摘します」(p.200)。
けれども、「「不釣り合いな(ふさわしくない)」相手に贈られる神の贈り物」(p.200)はあると。
バークレーの言葉を孫引きすれば、「神の贈り物は受け手の働きの価値に対応したものではない。しかし、同時にこの贈り物は聖と義の人生へと導く」(p.202)ということです。
「不釣り合いな(ふさわしくない)」相手に贈られる神の贈り物」と「無償の贈り物」「見返りを求めない神の恵み」はどこが違うのでしょうか。先払いにしろ、後払いにしろ、条件を求めない、ということでしょうか。「聖と義の人生に導かれる」とは、神は人に「聖と義の人生を生きてみせる」という見返りを求めているということなのでしょうか。しかし、これは「見返り」ではなく、むしろ、「感謝」「応答」であるなら、ローマ書には「見返りを求めない神の恵み」という思想があるのではないでしょうか。
また、ウェアという東方正教会の神学者によれば、「キリストが本当に人間になられたように、人間も神であるキリストへと参与していく、キリストのようになっていく」(p.208)とあります。
ようするに、神は「ふさわしくない」と思われる人をも救いに招く、それによって、人はキリストのような聖と義の生き方に招かれ、促されていく、ということではないでしょうか。つまり、キリストのような生き方をすることが神の救いの条件ではないけれども、救いの後、キリストのような生き方の可能性が開かれると。
このような救いの条件と救われた後についての考え方や、書名の「ユダヤ人も異邦人もなく」という考え方は、とくに目新しくはありませんが、NPPの功績は、「ユダヤ人は律法遵守による自力救済者である」という誤解を解くことにあるように思いました。