「ロゴス=キリスト=神さまからの深い呼びかけ」(p.18)。
これほど易しくかつ優しく「ロゴス」という神学用語を書き下した言葉を、知りません。
「はじめにあったのは、神さまのおもいでした。おもいが神さまの胸のうちにありました。そのおもいこそが、神さまそのもの。はじめのはじめに神さまの胸のうちにあったもの。神さまのおもいがじっとそそがれ、感極まって、あらゆるものが生まれました。神さまのおもいがあったからこそ、あらゆるものは、生きることができたのです。そして、神さまの思いは、生きるよろこびを人の世に輝かす光でした」(p.30)。
ここでは、ロゴスは、「神さまのおもい」と訳されています。これも、ヨハネ福音書の冒頭の、もっともわかりやすい日本語訳であり、同時に、もっとも優しい解釈でもあります。
「栄光とは、もはや愛情しかない状態のことです」「キリスト者にとって栄光とは、あらゆるものをつつみこんであたためる愛情の充満の状態です」(p.172-173)。
「神さまの愛の重大さが明らかになることが栄光と呼ばれています」(p.190)。
「栄光」も、聖書では、あるいは、神学用語では、神さまの愛がこの世界に満ち溢れていること(が明らかになること)なのです。
「救いとは「自分を受け留めてくれる相手がいる、という活ける安心感」(全面的な肯定、個の確立)であり、「相手との交流という具体的な出来事」(隣人愛、共同体づくり)にまで深まるものです」(p.255)。
「自分を受け留めてくれる相手」とは神さまであり、「相手との交流」とは隣人との交流でありましょう。罪が神さまや隣人を愛さないことであるならば、罪からの救いは、まさに神さまから愛され、隣人と愛しあうことでありましょう。
「「権威」とは「イエスとの親密さ」のことです。それゆえ、「権威ある者」とは「イエスのおもいを自分のおもいとして生きている者」のことです」(p.278)。
「イエスのおもい」はヨハネ福音書冒頭の「神さまのおもい」でありロゴスであり愛にほかなりません。
「「神さまが愛情深いおもいを、その胸のうちをさらけ出すことによって丸ごと私たちに与えてくださったということ」が「啓示」と呼ばれています」(p.301)。
「「聖霊の働き」とは、目には見えないかたちでさりげなく私たちを支え導く「神さまの愛情のはたらき」のことです。一族を導く家父長のように責任をもって万物のいのちの行く末を配慮しつづける神さまの力強いいつくしみはイエスによって具体的に目に見える救いの現実として示され、十字架上のささげ尽くす烈しい愛情の姿にまで至り、その愛情のおもいは今日も聖霊のはたらきとして慈母のようにひそやかに私たちの気持ちをつつみこんで希望で満たします」(p.302)。
「「シャローム」を現代語で言い直せば、「もうだいじょうぶだよ、あなたはすでにゆるされているのだから、安心してもよいのだよ」というニュアンスの非常にありがたいはげましの言葉に置き換えることができます」(p.389)。
こうしてみると、聖書やキリスト教の用語の多くは、神さまの愛という観点から書き下すことができるのです。
本書は、信仰的神学書とも呼ぶべき良書で、神学が神学者によって、しかも、(神学者ではない)信仰者の立場で書き下されています。けれども、じつは、それこそが神学者、神学、さらには、神父、牧師の仕事ではないでしょうか。
「神学」とは「神さまの愛に真似ぶ」ことだったのです。