目に見えない神など信じないから「信仰」などという言葉には興味がない、という人は少なくないことでしょう。ましてや、「神学」などというものは、ありもしないものをあるという屁理屈に過ぎない、と思われているかもしれません。
けれども、著者は、「信仰」や「神学」とは、そんなことではなく、「視点を変えて」自分や世界を「見てみる」ことだ、と書いています。
「神学とは『もし神がいるならば、この世界はどう見えるだろう?』と問う学問です」(p.6)。ならば、信仰とは「もし神がいるならば、この世界はどう見えるだろう?」と問う気持ちや心、のことかも知れません。
目に見えないものが見えるようになったり、無理に見えると言ってみたりしなくても良いのです。「もし、神がいるなら」と仮定して、世界を見直せば、それでよいのです。
(「もし」のことなど考えられないという人もいるかも知れませんが、「もし」がなければ、この世界には、文学も映画も歌も恋愛も存在しないでしょう。精神文化や科学の発展もありえないでしょう)
もし、神がいるなら、神はこの世界を描くのにどんな色を使うでしょうか。明るい色だけでしょうか。著者の塩谷さんは言います。「明るい色、暗い色、全て価値ある色としてお用いになります。今日の、あなたのとびきり明るい色、私のめちゃくちゃ暗い色、全てがこの世界に必要なのです」(p.66)。ならば、今日わたしたちが「さびしさ」に浸っているとして、この「さびしさ」も神さまに必要な色、わたしの人生に必要な色、に見えてくるかもしれません。
聖書には立派な信仰の強い人びとばかり出てくる、と思っている人がいるかも知れません。けれども、聖書には、困難な現実から逃げた人々がいろいろ登場します。
「なぜこの人々は逃亡するのでしょう。追い詰められてもその場で踏ん張り『ハードルを越える』生き方を選ばなかったのでしょう。理由は簡単です。逃げた場所にも救いの『神』いるのです。だから、逃げます」(p.77)。
もし神がいるならば、たとえ、今ここから逃げたとしても、そこにも神がいることでしょう。これは今まで見えなかったことではないでしょうか。
高校生の子どもに読んでもらおうと思って求めましたが、自分でも読んでみました。若い人にわかりやすくと書かれた文章と例話、イラストは、とてもよく考えられていて、若くない人にも伝わりやすいです。
教会に来る青年や聖書の授業を受ける高校生に読んでもらえたら、と願っています。