731 「相手を否定せず教え諭さないための教義学」 ・・・ 「教義学とは何か」(雨宮栄一、村上伸編、日本基督教団出版局、1987年)

 教義学には二つの側面があるのではないか。

 

 ひとつは、神とは何か、創造、キリスト、聖霊、救済、教会、終末とは何か、探求し、表現する学である。聖書やキリスト教会の信仰が、あるいは、先人のそのような探求、表現が、その資源になる。

 

 もうひとつは、そのような教義学の歴史を記述することである。キリストとは何か。Aはこう言った。Bはこう言った。Cはこう言った。かならずしも、この中から正解を選ぶのではない。あるいは、これらから、Dの意見を生み出すのでもない。

 

 そうではなく、これらを引き出しとするのだ。自分の好みはAであっても、BやCも捨てない。相手や状況に応じては、BやCの引き出しから取り出せるものもあるからである。

 

 キリスト教は二千年の歴史がある。その中から唯一の正解を導き出すことよりも、多くの回答を蓄える方が、キリスト教思想、信仰、キリスト教そのものが豊かになるのではないか。

 本書には、「教義学序説」「神論」「創造論」「キリスト論」「救済論」「教会論」とあるが、最後の「終末論」にはこのようにある。

 

 「ヴァイスやシュヴァイツァー・・・によると、イエスは自分が生きているうちに世の終わりが来ることを信じ期待していたのであった・・・徹底的終末論・・・」(p.238)。

 

 ドットの「実現された終末論」によれば「イエスと共にすでに、世の終わりたる神の国がこの世界に入り込んできていると、イエス自身も信じ、また、それを教えたとするものであった・・・すでにイエスと共に神の国、神の支配が実質的にこの世に到来している・・・」(p.239)。

 

 「ブルトマンの非神話化論・・・世の終わりは個人(実存)の死と解釈され、神の国(神の支配)とは、個人が自分の死を含めて、神の恵みに自己を明け渡すこととなる」(p.243)。

 

 「エーベリングにとっても、終末は遠い未来の出来事の描写ではなく、われわれが現在どのような生き方をするのかの問題なのである」(p.232)。

 

 「ティリヒにとって最後の審判、時の終わりは時間的出来事ではない。世の終わりとは、存在のすべてがいつも永遠によって制約され、支えられて存在している事情を意味している」(p.261)。

 

 牧師は相手に寄り添いたい。この世の終わりのことが話題になる場合、自分の好みの終末論を語るだけでなく、これらの様々な終末論を思い出しながら、相手の思いや考えを受け入れることもできるであろう。ああ、この人の思いはティリヒに似ているとか、ドット的だとか、あるいは、ブルトマンとエーベリングを足して二で割ったものだとか。

 

 神論にしろ、キリスト論にしろ、聖霊論にしろ、ひとつしか知らないと、それを絶対化し、それと違う考えに対しては、否定したり、教え諭そうとしたり、ということになるのではなかろうか。