さまざまな考えの人間たちが、いかにして合意を形成しうるか、あるいは、すべきか。「精神現象学」とは、じつは、そういうことを考えた本だった、と著者は言います。
つまり、多様な思考の人間たちが、歴史の中では結果的には相対的であろうとも、その時においては高度の一致点に、いかにして到達しうるかを論じた本が、ヘーゲルのこの書物だ、と斎藤さんは言うのです。
この方は凡人には解読できない難しい本を読みこみ、凡人にわかるようにすることにおいては、また、それが思想案内だけでなく、この人自身の思想と重なっていることにおいては、傑出しています。だから、マルクスの読解書につづいて、この本も、すぐに読まずにはいられませんでした。
「精神はそうした社会的な共同作業を通じて、歴史上に現れてくる集合体を指します。つまり、精神は、自然界における物理現象や動物的活動と区別された、人間に特有の社会的行為の総称といってもいいでしょう」(p.46)。
著者は、ヘーゲルの言う「精神」をさらにコンパクトにし、それは「私たち」のことだ、と言います。
「「私」の美や善をめぐる理解は、「私たち」(精神)によって規定されているのです」(p.46)。
ヘーゲル以前のデカルトやカントには「私」はあっても「私たち」という考えが存在しませんでした。けれども、「ヘーゲルによれば、個々の「私」は「私たち」のもとでさまざまな認識や知を獲得し、「私たち」の次元でこそ自由を実現できるといいます。つまり、知の獲得や自由の実現には、他者との協働が不可欠なことを示したのです」(p.49)。
しかし、「私たち」の意見が多様である中で、どのような「協働」がなされるべきなのでしょうか。
合理性を重視する人間の考え方、つまり、「啓蒙」は、エビデンスやデータを持ち出し、「信仰」を否定します。では、「啓蒙」と「信仰」の「協働」の道はあるのでしょうか。
啓蒙のやり方は最終的には自己否定につながるとヘーゲルは指摘している、と著者は言います。なぜなら、「信仰」には自己批判が欠けていると「啓蒙」は批判しますが、そう言う「啓蒙」は自分自身が間違っている可能性に気づいていません。「啓蒙」には「啓蒙」に必要な批判が自己自身に対して存在してないのです。
他方、信仰は「知をめぐって、信仰が啓蒙より優れている部分もあるのです。それは、「信頼する」ということが、知にとって本質的な構成要素であると直感的に理解している点です。さまざまな規範や規則が人々に是認され、通用するためには、みなが信頼をもって信じることが大事だと信仰はわかっている」「信頼関係がなければ、自分とは立場の異なる相手の知や主張の内容を理解することもできません」(p.80)。
しかし、信仰の側が、たとえば、「イエスが復活した物的エビデンスもある。なのに、信じないのか」などと言えば、啓蒙と同じ土俵にのってしまうことになる、ということもヘーゲルは言及している、と著者は言います。
著者によれば、ヘーゲルは「告白」と「赦し」という、これまた、信仰の概念を持ち出しています。
「告白」とは、「相手の主張を深刻に受け取り、そのうえで、自分の一面性を反省し、「私が悪である」と告白する。自分の立場が普遍的ではないことを認めて相手に歩み寄り、相手にも同じ態度を期待する」(p.116)ことです。
「赦し」とは、「自分は間違っていたと告白する相手に・・・自分の行為も「偽善」だったと認め反省し、行為する――完璧さを追求していた自分の立場を捨てる」(p.118)ことです。
つまり、「相手との意見の違いを認めたうえで、協働して、吟味し合う態度がここに形成されます。双方が、批判し合い、それを受けて自分の「偽善」を反省して歩み寄ることで、そこから協働で新たな知と正しさの基準を生み出していく――これこそが「赦し」が成立させる相互承認の関係です」(p.118)。
こう聞くと、「なんだ、学校の先生とかが良く言う、おたがいの意見をよく聴きあって、尊重して、みんなで一致して、というヤツか」とも思えますが、本書の意味は、それを、ヘーゲルによって基礎づけ、精神という概念で深化させたということにあるのではないでしょうか。
さらには、先生がそういうことを言っても、先生たち自身もそうできていないし、ぼくたちの日常の会話も、学校の教室も、組織の会議も、こんな精神とはまったくかけ離れている、反発、自己主張、けなしあい、暴言、抑圧に満ちている現状を想えば、この本は、やはり、重要です。
この本に書かれている精神をこそ、ぼくたちの精神にしたい。そういう「ぼくたち」「私たち」になりたい。