641 「古い神学用語を言い換えてみると」・・・ 「書き遺す 神学へのメモ ―贖罪・文化・歴史・老いる―【増補版】」(渡辺英俊 (著)、大倉一郎(編集)、2021年、ラキネット出版)

 副題にあるように、贖罪、文化、歴史、老いを考察する一冊である。

 

 この場合の「文化」は、良質の芸術や文学というよりも、「社会」「社会の支配的な考え方」に近いように思われる。社会の固定的抑圧的な通念に抗う新しい精神の登場が述べられている。

 

 「歴史」においては、戦責告白や「解放の神学からの問い」が論じられている。「老いる」については、著者にとって現在進行中のことがらであり、「断片的省察」が試論的に述べられている。

 そして、「贖罪」においては、「解放の神学の視点」から、旧来の、そして、現在もキリスト教会では支配的な贖罪論が批判されている。

 

 「このように信じた人々は、イエスの生と死の姿の中に人間の本来性、すなわち神に似せて造られた人間の本来の在りようが実現しているのを見て取る。また逆に、イエスの在りように実現している人間の本来性に神の姿が映し出されているのを見て、自分たちの中に共にいる神をそこに見て取る。こうしてイエスは、一方で人間としての神の似姿を体現し、もう一方では、それによって人間と共にいる神の在りようを証示する存在となる」(p.24)。

 これは、古来の神学用語では「キリストはまことの人であり、まことの神である」と言い表された事態を、著者の観点から言い換えているのであろう。いにしえの人はなぜイエスをそのように言い表したかを、説得的に説明していると思った。著者の「キリスト論」の一端とも言えるだろう。

 

 「十字架に至るイエスの生は、そこに発現している本来の人間性、すなわち神に似せて造られた人間の本来性により、わたしたちの中にも埋め込まれている人間の本来性を激しく共振させる。おそらく新約聖書が「聖霊」と名付けた事象の多くは、この共振であろう。これによりわたしたちは、イエスの振る舞いの中に神自身の振る舞いを見出し、このイエスに従って生きたいという願いを強く揺り起こされる」(p.26)。

 

 ここでは「聖霊」をイエスとの、神との、そして神に創造された人間の本来の姿との「共振」と言い換えている。著者の聖霊論と呼べよう。

 

 では、著者の贖罪論はどのようなものだろう。

 

 「イエスの生と死は、神とわたしたち人間との関係の回復とそれに繋がるダイナミックな自己変革と社会変革に原動力と方向性を与えるものであり、それに向けた神の側からの働きかけてとして、わたしたちの応答を求めているものである。「正統」的教理において「贖罪論」として宗教的に固定されてきたイエスの生と十字架の死は、このような社会変革的な広がりを持つ、神との和解過程としてとらえ直されるべきであろう」(p.25)。

 著者は贖罪論を言い換えるというよりは、贖罪、贖罪論という概念を棄てたように思われる。イエスは、わたしたちの宗教的な罪を贖う存在ではなく、わたしたちと神との関係を回復させ、しかも、弱者を苦しめる社会を変革するような人間に変わることを促す存在であると。

 

 これに伴い、洗礼の意味も更新される。イエスヨハネから洗礼を受けたが、そのイエスと同じように洗礼を受けるということは「イエスに従う第一歩になる・・・自らの出発点を画する一線として、洗礼を受けるという振る舞い方があってもいいはずである。またそれを、教会という集団の共同儀礼として位置づけることも、あっていいと思われる。しかしそれは、人と人との間に線を引くようないかなる意味付けをなくした上でのことである」(p.35)。

 つまり、洗礼は、受ける人が、それをイエスに従う出発点として位置づけることができるが、洗礼を受けないでイエスに従うこともあるし、また、洗礼を受けている人受けていない人のあいだに差別があってはならないということだろう。

 

 「捕縛・処刑が避けられなくなったイエスが、運動の仲間たちと別れの食事を共にした「最後の晩餐」は、教会の現行聖餐式のように、抽象的な「罪」の許しの儀式の制定ではなく、貧しい人々の飢えの問題をともに担う運動の一場面と受け止めなければならない」(p.37)。

 

 そうすると、当然、聖餐式には洗礼を受けている人も受けていない人も参加できることになる。食卓、食事、食糧のわかちあいは、「貧しい人々の飢えの問題をともに担う運動の一場面」にほかならない。

 

 「「原罪」というのは、神学用語としては、人間が祖先から引き継がされ、逆らいがたく背負わされた宿命的な罪責を意味するが、現実にはほとんど何をも意味しない極限まで抽象化された概念である。しかし、これを神学から切り離して現実の「文化」に当てはめてみると、そこで起こっている事態を的確に明らかにするのに役立つ。わたしたちは、自分たちの文化が背負う原罪を、他ならぬ「自己」のこころに背負わされ、本来性を失った「自己」として、「文化」の作り出す現実の「加害―被害」関係の中で、被害者を生み出して生存している」(p.53)。

 ここでは、著者の原罪論が述べられていると言えよう。これを、わたしなりに、解きほぐしてみよう。

 

 「文化」は「社会」と言い換えられる。わたしたちの社会は、自分以外の人間を、とくに自分より下に位置付けた人間を、抑えつけ、差別し、利用している。そのような暴力的な精神が社会では支配的である。わたしたちは、社会のこの精神を共有している。わたしたちたちも社会と同じことをしている。

 

 この認識があって、「解放」の歩みが始まるのだろう。

 

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