誤読768 「バルトの修辞と倫理と無償の神」・・・ 「カール・バルト《教会教義学》の世界」(寺園喜基、2023年、新教出版社)

 一番目。バルトは神学概念の定義に長けている。定義はむろん言葉でなされるが、その言葉には一定のリズムがある。あるいは、異なる二つのことの重ね合わせ、並列などの表現が用いられる。

 

 たとえば・・・

 

 「聖書神学は教会の宣教の基礎づけを、実践神学はその目標を問うが、教義学はその内容を問う」(p.34)。

 

 「神がキリストの十字架と復活において、人間の死をご自分のものとなし、ご自分の恵みと命を人間のものとするという、驚くべき交換」(p.57)。

 

 「神の戒めにおいては、当為は許可であり、許可は当為である」(p.69)。

 

 つまり、「あなたは人を殺してはならない」という神の戒めは「あなたは人を殺さないで生きていくことができる」ということでもある、というのだ。

 

 「教会の不可視性とイエス・キリストの神的本質、教会の可視性とイエス・キリストの人間的本質には対応、類比が存在する」(p.321)。

 

 つまり、イエス・キリストはまことの人でありまことの神である。まことの人として地上で過ごした期間は人の目に見えた。しかし、復活して天に昇ってからは人の目には見えなくなった。まことの神だからである。個別の教会は目に見える。しかし、これは、目に見えない世界共通の教会の一形態、一表現である。

 

 二番目。バルトはキリスト者の倫理を唱える。これはキリスト者の生き方であり、教会の意味である。

 

 「ボン大学の学長はドイツ式敬礼(右手を上げて「ハイル・ヒトラー」と叫ぶ)をもって全ての講義を始めるようにと通達したが、バルトはこれに抗して讃美歌を歌って始めた」(p.20)。

 

 キリスト者は、民を抑圧する支配者にではなく、民を解放する神に仕える、ということだろう。

 

 著者の寺園さんは「ボン時代から始まる(ナチズムに対する)教会闘争と『教会教義学』とは神学的に密接に関連している」(p.20)と指摘する。

 

 「イエスを十字架にかけたことにユダヤ人も異邦人も同罪であり、これは「決してイスラエルの特殊問題ではなかった」し、また「この民の特別な悪意、あるいは特別な運命に基づいているものでもない」(p.31)。

 

 たしかに、「イエス・キリストはわたしたちの罪のために十字架についてくださった」と言いながら、「ユダヤ人がイエス・キリストを十字架につけた」とも言える矛盾したキリスト教徒がいる。

 

 「神の全能は無性格なものではなく、道徳的・法的な方向性を持つ。すなわち神の全能は正義であり善である」(p.52)。

 

 キリスト者はこの神の正義と善に従う者である。

 

 「この世に対するキリスト的態度の基本的な規則は「互いに愛し合うこと」と言わねばならない」(p.71)。

 

 社会における不正義に抗うことは何も政治的なことではない。愛である。言い換えれば、「互いに愛し合う」キリスト的態度は根本的に政治的である。

 

 「人間の創造の目的は何か。それは、神のために生きることである」(p.83)。

 

 人間は神に生を与えられ、神によって生かされているのだから、神とともに生きるのであり、神のために生きるのである。

 

 「先に人間イエスは神のための人間であることを見たが、そこに人間イエスの神性を見た。それに対応して、人間イエスはその人性において他者のための人間である。人間イエス人間性は「他の人間と共にある人間性」であり、またイエスにおいては彼が「他人のためにいます人間」であるということである」(p.86)。

 

 イエスは先ほどのように「まことの神でありまことの人である」が、イエスの「まことの人」の人間性は「他の人間と共にある」ものであり「他人のためにいます」ものである。これは、わたしたち人間の本来の姿でもある。

 

 「教会が存在することは自己目的ではない。そうではなく、一つの目標を持つ。それは、人間世界の聖化を表示することである」(p.253)。

 

 イエス人間性、そして、わたしたちの人間性が自分ではなく他者のためのものであるように、教会も自分の栄光のためではなく、世界に神の聖性、愛を示すためにある。それは、すでにある神の愛を示すと同時に、神の愛を受けているにふさわしい姿に世界を変えていくことでもあろう。

 

 三番目。神の愛、救いがまず最初にある。人間や世界は神の愛を受ける条件を満たしているわけではない。神が無条件に最初から世界と人間を愛している。

 

 「ルターにおいては律法と福音、神の怒り・神聖性と神の恵み、という二元論が主張されたが、バルトにおいては、律法が福音の中に、神聖性が恵みの中に、神の怒りが愛の中に証しされていることが主張される」(p.48)。

 

 福音、つまり、神がわたしたちを救ってくださる、愛してくださる、ともにおられるという幸福な音信が、すべてに先立つのである。

 「人間がどのように悲惨な状態であっても、神の恵みの勢力圏の外にいるのではなく、内にいるのである」(p.242)。

 

 たとえどんなに絶望的に見えても、神の愛、神がともにおられることがそれに勝るのである。

 

 「神の愛は「選ぶ愛」である。選ぶ愛とは、神の愛が神の自由な行為であることを示している。愛の対象である人間は、神に敵対するものであり、愛されるに値しない。このような人間を神は愛されるのである。これは神の恵みに満ちた自由な選びに他ならない」(p.263)。

 

 優秀な者、望ましい者が選ばれるのではない。エリートが選抜されるのではない。望ましくない者が選ばれるのでもない。予定論とは、誰かがそのような意味で選ばれて救いを予定されていることではない。神が「選ぶ」「予定する」とは、相手(つまりわたしたち人間)がどんなものであっても、神の心によって救う、受け入れることである。神は無条件にすべての人を愛することをご自分のお心で選んだのである。

 

 「希望が力を持つのは、信仰者が希望を持つことによるのではなく、またこの希望が自分の将来を保証することによるのではなく、希望の対象が力を持つことによるのである」(p.333)。

 

 つまり、わたしたちが希望持つのは、わたしたちが希望を持つ意志や力が強いからではなく、希望の対象である神の救い、愛が圧倒的だからである。

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