ヨブ記42章6節にはさまざまな訳があります。
「わたしは塵と灰の上に伏し、自分を退け、悔い改めます」(新共同訳)
「私は自分を退け、塵と灰の上で悔い改めます」(聖書協会共同訳)
「私は自分を蔑み、悔いています。ちりと灰の中で」(新改訳2017)
ところが、並木先生はここを
「私は退けます、また塵灰であることについて考え直します」
と訳しています。
ここが、本著の最大ポイントのひとつでしょう。
最初の三つの訳においては、「塵と灰」は、「わたし/私」が「悔い改める」際の「場所」ですが、並木訳では「考え直す」の「目的語」になっています。
つまり、三つの訳では「塵と灰の上で悔い改める」と訳されている旧約聖書ヘブライ語原文を、並木さんは「塵や灰であることについて考え直す」と訳しています。これは、「自分が塵や灰に過ぎない存在であることを忘れていたことを反省して、もう一度振り返る」という意味だと思われます。
創世記18:27には、アブラハムの「塵や灰にすぎない私ですが」という言葉があります。並木さんによると「アブラハムはこの言葉によって、自分が被造物にすぎないが、神に対して人格的に応答できる恵みを感謝」(p.212)しており、ヨブ記の42:6は、「この感謝を引き継いでいる」(同)のです。
さらには、「「塵灰であることについて考え直します」とのヨブの反省は、彼一人の被造者としての限界と被造者への恵みの告白であることを超えて、世界と人類の被造性を考えるという課題につながります」(同)と並木さんは言います。
では、この本の副題「苦難から自由へ」にはどういう意味があるのでしょうか。
「ヨブはこの世界の悲惨な状況は神の放置がもたらした結果ではないかと疑って神に抗議しましたが、結局、世界にはびこる不正義は被造者の責任であることを教えられました。神がそれを糺そうとして直接にこの世界に介入するならば、この世界に生きる人間は自由な決断と行動の意味を失うでしょう」(p.220)。
つまり、わたしたちは、神はなぜ自分や世界に苦難をもたらすのか、それを放置しているのか、という思いを持つのですが、苦難は神ゆえのことではなく、他者に苦しみをもたらす人間の責任であり、そのような事態の解消に神は介入せず、人間が与えられた自由において責任を取るべきである、責任を取るために自由が与えられているということではないでしょうか。
「彼らは貧しい者たちを、暮らしの道から押しのける。この地の困窮した人々は身を寄せ合って隠れている」(ヨブ記24:4)。
このようなヨブ記の記述について、並木さんはこう記しています。「古代において、ここまで労働者の側に立ち、現実に即して彼らの悲惨をリアルに描いた言語作品は他にないでしょう」(p.120)。人間のこのような苦難、悲惨を、わたしたちは神に押し付けるのではなく、みずからの自由において克服しようとしなければならないと。
ヨブ記の40章以降、ヨブは神に強く叱責されていますが、この叱責の意味を並木さんはつぎのように述べています。「神はその弁論において創造者の意図に挑戦したヨブを確かに叱責しました。しかし神は、ヨブに罪ありと宣言したでしょうか。そんなことは何一つありません」(p.208)。むしろ「神の弁論は、神が自分の無自覚の咎を罰しているのではないかという根本的な不安からヨブを解放しました」(同)。ここにヨブの救いがあります。
「神は被造者のひとりであるヨブに対して、ご自分を現しました。神ご自身がヨブに直接応答なさったのです・・・ヨブにとってはあり得ない名誉でした・・・神は叱責のかたちをとって、創造と創造世界における神の知恵と恵みをヨブに見せたのです。神にとって、ヨブの罪などは言及に値しないものでした」(p.210)。
「苦難の中にあるヨブに神が直接応答したことによって、ヨブの尊厳が確保されました。彼は御心の内に置かれていたのです。このことを悟ったヨブは、公義を無視する者として神を批判せざるを得ないという苦しみから解放されました」(p.221)。
「神さま、どうして?!」と叫ばないではいられない出来事が人生には何度か起こりますが、神を根本の支えにする人びとにとっては、この叫びの方が出来事そのものよりも、大きな苦しみでもありうるでしょう。けれども、ヨブは、この苦しみから解放された、と著者は言うのです。