この本は終末論を批判しています。どのような点が批判されているのでしょうか。
わたしは、この本を読むまでは、終末論について肯定的な印象を漠然と抱いていました。それは、わたしたちが生きている社会や歴史には暴力、権力を持つ者たちによる支配、抑圧、不正義が根強くはびこっているが、歴史の最後には、神が平等、平和、正義の世界を完成してくれる、それを信じて、歴史の中で今は不正が支配しているように思えても、わたしたちは、少しでも正義に近づくように歩んでいこう、という希望を与えてくれるからです。
それでは、著者はなぜ終末論を批判するのでしょうか。
「人間は努力次第で『義人』になることができ・・・他方で『罪人』は裁かれるという思想、ここに終末論の前提とする二元論的世界観の根本問題がある」(p.8)。
そして、「努力次第で『義人』になることができる」ということは、「人間は『神のように』なれるということになる」(同)と著者は言います。
さらに、著者は、これを現代社会の問題と重ねて、金持ちは禁欲的で勤勉な「義人」であり、貧者は怠惰の報いを受けた「罪人」と見なされてしまっている、と指摘します。たしかに、裕福は努力の結果、貧困は怠惰の結果の自己責任、という暴言が今の世界には出回っています。
さて、著者によれば、旧約聖書には大きく二つの系譜があると言います。ひとつは、人間は神の前に不完全であり、愚かであり、悪い思いを持つ者であると認識し、そのような人間のひとりである王の支配に反対する「審判預言」。これは、「人間の被造性を確認するので『創造論』」(p.33)とつながります。
もうひとつは、人間はいつか神のような理想的な存在になれるとする「救済預言」。これは、「未来の完成を展望するので『終末論』」(同)とつながります。
本書では、それらのことを、聖書外のユダヤ文献も引用して、論じています。引用されたテキストはかならずしも読みやすいものではなく、著者が説明してくれているその内容も複雑なので、飛ばし読みして、章ごとの結論だけ読むようにしても構わないかもしれません。
新約聖書では、まず、洗礼者ヨハネには終末論的二元論がうかがわれます。「悔い改めよ」と言われても、「職業的または身体的理由により『罪人』と見なされた人たちにとっては、職を変えるか病を癒すしか『罪』から逃れるすべはなく」(p.190)、「罪人」のままにされるからです。
イエスは、最初はヨハネのもとに行ったものの、やがて、上述の「『罪人』とされた者たちのもとへ行き、彼らの友となっている。黙示思想では、被造世界は終わりを迎えるはずだが、イエスは自然界にはたらく神を見ている」(p.198)と著者は言います。
しかし、イエスの死後、弟子たちは、「キリスト神話を作り上げ、それを受け入れるか否かがその者の『救済』か『滅び』かを決定するという二元論的世界観へと突き進み、セクトを形成して熱心な宣教活動を行うようになった」(p.206)というのです。
パウロも、最初は、律法遵守による自力救済から神の然りによる他力本願型信仰に目覚めたが、やがて、自分の「信仰」を救いの条件として、自力型に戻り、信じる者は救われるが、信じられない者は救われない、というところに陥ってしまったといいます。
最後に、著者は、「終末論は人間が『神のように』完全になりうることの期待を語るが、創造論はその不可能性を弁えることを教える。終末論は高潔さを求めるが、創造論は愛(赦し)を前提とする」(p.222)とし、どちらを選ぶか、読者に問いかけています。
わたしは、神が人を義人罪人とレッテル貼りをせずに、無条件にいのちを与えているように、神の無条件の愛が人間の価値観や社会にみなぎる終末に究極の希望を抱きつつ、すべての人が平等であることが認識され、そのように扱われる社会へと少しでも前に進もうと努力するのが良いと思います。しかし、その努力が査定の対象になってはなりません。
ポイントは、終末そのものというよりも、人が人を義人罪人と差別することへの批判であるように思いますが、終末論がそれとセットなら当然批判されるべきでしょう。