教義学と組織神学はどのように違うのだろうか。
「神には、創造者、御子キリスト、聖霊の三つの位格がある」
「神には、創造者、御子キリスト、聖霊の三つの位格がある、という論がある」
ぼくの中では、とりあえず、前者が教義学であり、後者が組織神学である。
バルトの口調は、全般的には前者のようなものであるように、ぼくには思える。しかし、ぼくは、後者のような言い方の方が好きだ。そして、その論、その表現の背後に、どのような神体験があるのかに関心がある。
じつは、バルトもこう言っている。
「「われ~を信ず」(Ich glaube an, credo in)とは、まさに、〈私は独りぼっちではない〉ということにほかならないのです」(p.27)。
「わたしは、いついかなる状況のもとでも、つまるところ、神とともにあるのです。これこそが、「われは、父・御子・聖霊なる神を信ず」ということの意味であります」(同)。
すると、バルトは「父・御子・聖霊なる神」とは「ともにある神」を体験した表現であると言っているかというと、かならずしもそうでもなさそうだ。
バルトは、「信ず」をつけて、「われは、父・御子・聖霊なる神を信ず」ることが「神ととともにある」ことだとしか言っていない。
慎重なのだ。「父・御子・聖霊」という聖書の言葉、神の言葉を離れない。同時に、神そのものを人間の体験に還元しない。
そして、本著全体も、人間の体験ではなく、神はこうだ、御子はこうだ、聖霊はこうだ、という書き方に貫かれている。だから、これは、組織神学というよりも、題名通り、教義学の本だと思う。