703 「人生とともに深まる精神、広がる宇宙」・・・「暮らしの哲学」(池田晶子、毎日新聞社、2007)

 この書名にはどのような意味があるのでしょうか。毎日の生活にも哲学のヒントがある、ということでしょうか。そうかもしれませんが、暮らしというより「生きていること」そのものの哲学、つまり、わたしたち人間と世界の根本を考える哲学、というようにも思います。

 

 「私が考えているのと同じことを、大学の研究者が哲学論文で言ったって、世間は理解しません」「じっさい、筋道に沿って正しく考えているのなら、専門用語なんか要らないのである。普通の言葉で言えるのである」(p.30-31)。

 このような意味でも、「暮らしの」と形容されているのでしょう。

 たとえば、「現象「すなわち」本質であり、本質「すなわち」現象である」(p.32)と、世間は理解しないような哲学論文級の表現を著者自身もしていますが、それが、巻末では「「同じ」は「違う」の中にこそ存在している」(p.242)と普通の言葉で言い換えられています。

 

 もっとも、「「同じ」は「違う」の中にこそ存在している」という言葉もやさしくはありません。なぜでしょうか。それは、これが「考えた」言葉だからです。著者は考え抜きます。わたしなどは、考えているのではなく、思っているだけです。わたしの言葉などは、考え抜かれているのではなく、思いついたことを条件反射的に羅列しているだけです。思いついたことを深めよう、もっと考えようなどとしないのです。その程度のことを、自分の考えといっているのです。ところが、著者は考えています。考えに考えています。考えることこそ生きることですから。やはり、暮らしの哲学とは、そういう意味でしょう。

 

 では、著者はどんなことを考え抜こうとしているのでしょうか。

 

 「複雑な消化の過程や、心臓が正しく打つことなど、誰が自分の意志で行っているものだろう。いや何よりも驚くべきことは、なんと、体は自分が作ったものではないということだ。自分の作ったのではないものが、自分の意志を超えているのは、当たり前のことなのだ・・・自分が作ったのではない、では誰が作ったのかと言えば、言うまでもなく「自然」です。自然は人間の意志を、どうこうしようという賢しらな意図を完全に超えている・・・自分であるところの肉体とは自然だ、自然は自分を超えている。ゆえに、自分は自分であり自分でないという不思議の構造に気がつくと、これはこれで広い所へ出られます」(p.22)。

 消化とか心拍数とかいったことは誰でも「暮らし」のなかであれこれ思いますが、それを「自分は自分であり自分でない」=「「同じ」は「違う」ことの中にこそ・・・」というところまで考え抜く。著者の哲学とはこういうことなのです。

 

 「「私が聴いている」「私が見ている」という主格二元、主語述語の世界観を、思わず知らず受け入れていることになる。この世界観は、我々の経験を、自ずから痩せたものにしてしまいます・・・秋の夜長に私が虫の音を聴いているのではない。ただ虫が鳴いている。(私が)虫の音として鳴っている。私が星空を眺めているのではない。(私が)星空として存在していると、こういうことになります。科学的世界観成立以前の、これが本来の世界のありようなのです」(p.134)。

 

 世界とは何か、と考えるとき、私という主語が世界という目的語について考えるという述語行為をしている、と考えるように私たちはいつの間にかなっていますが、本来は、私が世界として存在する、私が考えるということが世界そのものである、ということでしょうか。

 もう一度、「考える」に戻りますと、著者は「哲学とは「自分で考えるもの」、思想は「取って付けるもの」」「考える行為そのものを「哲学」と言い、考えた結果、表現された言葉の側を「思想」といっても良いかもしれない」(p.137)、「あらゆる前提を疑い、ゼロから考える哲学」(p.139)と述べています。

 

 ところで、著者にとって、「考え」もこの世界に存在するもののひとつです。言葉、考え、感情、気分など、「意識」と総称されるもの、そして、「質量がないもの」(p.162)もこの世界には存在している、と言います。さらには、「現象としてのこの宇宙という存在は、意識もしくは概念というふうに見えています」(p.164)と言います。

 

 さらには、「「物質世界」に対して、「精神世界」があるのではなくて、物質であるところの精神が、精神として経験しているのがこの物質世界であるわけです。だって経験できるのは精神以外のものではあり得ないでしょう。だから、「精神世界」なんてものは存在しない、存在するのは「世界精神」だと私は言うのです」(p.196)。

 

 私たちが宇宙について考える、意識するのではなく、私たちの考え、意識が宇宙として存在する、宇宙とは私たちの意識、考え、精神である、というのです。宇宙が私たちの精神の想像物というよりは、私たちの精神と宇宙は同じものなのだということではないでしょうか。あるいは、私たちの精神は、世界精神と同じものであり、それが宇宙であり、存在であると。

 

 死ぬとはどういうことなのでしょうか。わたしたちは死んでいませんから、死ぬということは想像するしかありません。死ぬということが何であるか知りません。また、生きることが死ぬことの反対であるならば、やはり、わたしたちは死んでいませんから、生きるということがどういうことなのか知りません。

 

「本当に不思議なのは、死後の存在ではなくて自分の存在だ・・・生きているとも死んでいるとも正確に考えると言えなくなってくるところのこの「自分」は、したがって、生きているのでも死んでいるのでもなく「存在している」」(p.202)。

 

 164頁には「宇宙という存在」とあり、196頁には「存在するのは「世界精神」」とありました。主語述語二元論を克服していうならば、存在=宇宙=世界精神ということになります。そして、202頁では「自分は存在している」とありますから、存在=宇宙=世界精神=自分ということになります。なんと不思議なのでしょうか。

 

 「私が年をとることを、おいしい、面白いと感じるのは、自分の心がいよいよ深く豊かになってゆくのをはっきりと自覚するからです。ああ、こんな感覚、こんな考えは、若い頃には知らなかった。こんなにも深く、あの考えが成長した、こういう内なる成熟を、日々観察し味わいつつ暮らすことである老いるということは、私にとって非常な喜びでありまして、神は(自然は)我々の晩年にかくも素晴らしいご褒美を用意してくれていたのか、そういう感謝めいた気持ちにすらなるものです」(p.228)。 

 

 「暮らしの哲学」とは「生きている中で深まっていく世界=自分の精神」と言うこともできるでしょう。

 

 「生きている限り考えざるをえない性向である私には、当然そのぶんの時間、時間の厚みが加味されてくることになる。この間の事情をつづめて言うと、「人生そのものが思索と化す」という事態となるわけです」(p.239)。

 人生=世界=宇宙=自分=思索=精神なのです。これは、宇宙を小さくすることでも自分の支配下におくことでもなく、むしろ、オレ、オレという小さな主語であった自分が宇宙というかつての述語の中に委ねていくことではないでしょうか。

 

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