702 「カルト問題と自己のカルト化問題」・・・ 「徹底討論 ! 問われる宗教と“カルト”」(島薗進、釈徹宗、若松英輔、櫻井義秀、川島堅二、小原克博著、NHK出版新書、2023年)

 NHKの討論番組を文字化したものとのことです。

 

 まず、カルトとは何か、どういうもののことを言うのでしょうか。

 

 「マイノリティ集団で、熱狂的な崇拝行為を実践している団体で、関わってしまうと違法行為や反社会的な行為に巻き込まれて、自分も不利益を被るし、社会や身近な人々に対しても不利益を被らせてしまうような団体、それを私の中ではカルトと考えています」(p.21、川島)。

 「閉鎖的にひきこもるだけではなくて、敵との対立感を強く持って外に向かって攻撃的に打って出る側面があります・・・かなり攻撃的に社会に関わったにもかかわらず、抑制がきかなかった。これは政治的な庇護を受けたことが、非常に大きいですね」(p.23、島薗)。

 

 「宗教は一歩間違えれば、“カルト”になる可能性をはらんでいる・・・宗教がカルト化しないために、絶対に越えてはならない「壁」・・・一つ目は「恐怖」です・・・恐怖で人を縛りつけてしまったら、私は、それをカルトだと思うんです・・・二つ目は「搾取」です・・・三つめは、「拘束」です」(p.24、若松)。

 

 「カルトという言葉と隣接するものとして原理主義があると思います。原理主義は、自分たちの教義を絶対視して他を見なくなってしまう」(p.27、小原)。

 

 違法行為や外部攻撃をしなくても、「恐怖」で人を縛りつけてしまう宗教団体もあるかもしれません。「神さまを信じれば救われる」という言葉の背中に「そうでなければ救われない」と書かれていないか、それが誰かに「恐怖」をもたらしていないか、よく考えたいと思います。自分の信じる教義は正しい、ということは良いのですが、その裏に、他の考えは間違っている、と書かれているならば、それは、自己絶対化になってしまうでしょう。

 

 この危険はどの宗教にもありうることでしょう。

 

 「私は既存の宗教が人々を「疑いがないことがいい状態だ」というところに導いてきたように思うんです。でも、本当はそうではなくて、信仰が深まっていくということは、疑いが深まっていくことだと思うんです・・・宗教の側に「疑いもまた、何かの意味がある」ということをもう一度、語ってほしい」(p.30、若松)。

 

 若松さんは遠藤周作と同門であり、遠藤は「信仰とは99%の疑いと1%の信仰である」ということを言っていたように記憶しています。それは、100%信じられなくてもいいんだよ、という意味に解していましたが、若松さんのこの言葉を読むと、信仰が深まるほど(神へのというより)自分の信仰への疑いは深まる、絶対者の前では、自分の信仰さえ相対化される、それが信仰だ、という意味にも思えてきました。

 

 「「恐怖」「搾取」「拘束」があるという話がありましたね。わたしはそこに「嘘」の問題を加えたいと思います」(p.66、島薗)。

 

 たしかに、カルトには欺瞞が漂っています。政治との接点のひとつなのかもしれません。

 

 この本では「宗教リテラシー」という言葉が何度か出てきます。リテラシーとは「ある分野に関する知識や能力を活用する力」などと言われます。

 

 「たとえばお金のことで言えば、聖書で「罪」という言葉は「借金」を表す言葉と原語において同義です。ですから、罪の償いのためにお金を支払うというのは、聖典レベルで裏づけることもできる。本来は、直接つなげてはならないのですが、旧統一教会は巧みにそこを利用してきます」(p.75、川島)。

 つまり、聖書の「罪」という語には「借金」という意味があるという知識を(「活用」ではなく)悪用すれば、もっと献金しないと罪が償われない、と脅すことができてしまうのです。しかし、リテラシーがあれば、その知識を、たとえば、「罪の赦しとは、その人の負債を神さまが免除してくださることなのだ」という救いの言葉にすることができるでしょう。

 

 川島さんは、リテラシー欠如の例として、ルカ16章のいわゆる「不正な管理人」のたとえ話の濫用を挙げています。「この世で「悪」とされることも神仏の目には「善」となる場合があると悪用されかねない話だ。このように宗教聖典には解釈者が都合よく解釈して悪用できる物語があるので、宗教指導者には倫理性(宗教リテラシー)が求められる」(p.82、川島)。

 

 カルトの問題の一因はその拡張主義にもあると考えられます。言い換えると、不健全な拡張を考えると、カルト的になりかねない、とも言えるでしょう。

 

 これに関して、若松さんはこう述べています。「ただ、宗教が本当の意味で深まっていくことを考えるときに、拡張することが「深まること」と必ずしも一致しない・・・いま重要なのは、宗教の側が深まる方向に舵を切れるかどうかではないでしょうか・・・規模としては縮小してはいるけれども、縮小することによって初めて自分たちの至らなさ、つたなさ、あるいは傲慢さが見えてくることもあると思います」(p.100、若松)。

 

 ぼくはキリスト教の牧師をしていますが、自分たちの信仰、教会に集う人びとの信仰を最大限に大切にすることと、どうじに、その大切さを花から銃刀に変えてしまわないこと、それ以外の人びとを否定しないこと、この両立を考え続けて行きたいと思います。

 

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