うちの14歳の子どもたちは興味を示さなかったけれども、56歳のぼくは、とてもおもしろく読めました。あたらしい考え方に、また、考えるということの基本に触れることができました。
たとえば「個性」の章。本当の自分とは、こうであるとか、ああであるとか示すことのできるようなものではありません。すると、「本当の自分」は「こうだとかああだとか示せないもの」として「ある」とも言えますが、こうでもなければ、ああでもないのだから、自分は「ない」とも言えます。
「あって、ないもの、『自分』の不思議。この面白さに気がついたら、君は、みんながやってる自分探しなんて、つまらなくてやってられなくなるはずだ」(p.31)。
この本では「存在の不思議」(あるとかないとかいうことの不思議)や「言葉の不思議」など、「不思議」が軸になっていると言えるでしょう。
たとえば「意見」の章。著者によれば「意見」とは「自分が思っているだけのもの」であり、真にもつべきは「考え」です。「考え」とは、自分だけでなく誰にとっても正しい考えのことです。(ただし、「考え」は「答え」とは似て非なるものかもしれません。)
「君は、ただ自分が思っているだけのことを意見として言う前に、それが誰にとっても正しいかを、必ず考えなければならないんだ」(p.50)。
耳が痛い言葉ですが、自分の中に、自分に不都合であっても、自分をも他者をも測る普遍的基準を持っておかなければならない、ということは、善悪などに関しては、その通りです。
「君がしなければならないのは、自分の意見を主張することではなくて、本当の考えを知ること、自分の立場や都合を超えた、誰にとっても正しい考えを、自分で考えて知ることなんだ」(p.51)。
哲学とは、まさにこういうことなのでしょう。たとえ、相手が「不思議」であっても、思うだけでなく、考えつづけなければならないのです。
「君は自分のはからいでこの世に生まれてきたのかい? 君が生きているということ、君が今この宇宙に存在しているというこのことは、君の力によるものなのかい?・・・・自分は自分でありながら自分じゃない。このことの不思議を・・・」(p.142-143)。
ここには、哲学と宗教の接点、いや、共通の基盤があると思います。哲学には、難しい用語や概念の操作以前に、自分とは誰か、自分はどうしてここにいるか、さらに言えば、自分を取り巻くこの世界とは何か、と問い続けることなのです。