571 「あわいの愛」 ・・・ 「『利他』とは何か」(若松英輔、中島岳志、國分功一郎他著、集英社新書、2021年)

 「理系」の大学、東京工業大学に、「利他プロジェクト」という「文系」の研究グループがあるそうです。本著は、そこに属する五人の、一般読者向けの論考エッセイが収められています。ちなみに、東工大の文系教員は昔から読み応えのあるものを書いているように思います。文系ではなくいわば他業種の理系の学生相手に伝える努力のなかで練られたものなのでしょうか。

 さて、中島岳志さんによると、「利他をめぐって(五人に)共通する人間観」は「うつわになること」であり、それが「本書のポイント」(p.212)です。

 「うつわになる」ということは、働く何かの容器になることでありましょう。利他においては、人間の体、精神、意志、つながりなどは、何かが働くための道具ということになりましょう。私が他者を利する言動をなした(ように見えることがあった)としても、その主体は、私の善意(あるいは悪意)などではないのです。

 

 では、利他においては、何が主語なのでしょうか。本書には出てきませんが、新約聖書には「神は愛である」という言葉が出てきます。これは、私が誰かを愛しているように見えても、あるいは、私が誰かに愛を送っているように見えても、その愛は、じつは、私ではなく神である、神とは私と誰かの間に働く力である、という意味ではないかと、ぼくは考えています。本書で述べられている利他は聖書で言う(聖書以外でも言われている)愛に近いように思います。

 

 伊藤亜紗さんはこう述べています。「特定の目的に向けて他者をコントロールすること。私は、これが利他の最大の敵なのではないかと思っています」(p.46)。「『自分の行為の結果はコントロールできない』とは、別の言い方をすれば、『見返りは期待できない』ということです」(p.51)。

 

 利他が私の意志でなされることならば、私は相手から好意をもたれようという支配欲や利得を求める誘惑につねにつきまとわれることでしょう。

 中島岳志さんはこう述べています。「自分の個を超えた力に促されて生きていることを、仏教の世界では『業』と考えてきました。業とは、後ろから押す力、何かオートマティックな力です。そして、このような自分の意思とは違う何かが働くという問題を考えないと、利他の核心に迫れないのではないか」(p.96)。

 

 「自分の個を超えた力」「何かオートマティックな力」「自分の意思とは違う何か」は、無感情・無意志の機械的なものでもなければ、運命でもなく、この世界を創造したり、生命を与えたり、支えたり、受け入れたりする、なんらかの志向性の(思い切って言えば、愛の)ある宇宙精神/心を備えた力、あるいは、精神/心そのものではないでしょうか。

 では、利他において、わたしたちはうつわになる時をあてもなく待つだけなのでしょうか。

 

 若松英輔さんはこう述べています。「『他力』は自分では何もせず、仏のちからによって何かが起こるのを呆然と待つことではありません。人間と仏が、人と仏の二者のままでありながら、『一なるもの』になることです・・・利他における『他』も、自分以外の他者ではなく、『自』と『他』の区別を超えた存在ということになります」(p.113)。

 

 ここには大事なことがふたつあります。ひとつは、待つだけではない、なることだ、ということです。もうひとつは、利他とは自が他を利するのではなく、自と他が自と他のままでありながら「一なるもの」になるということです。

 

 後者について、若松さんはさらにこう述べています。「自他の二者が二者のままで『不二』になる。数量的な一を超えた、『一なるもの』として存在することなのです。

 

 キリスト教の三位一体も同じように考えることができます。創造者(父)、イエス・キリスト(御子)、聖霊は、それぞれでありながら、一であると。三位一体の一に「数量的な一を超えた『一なるもの』」という補助線を引いて見るのもおもしろいでしょう。

 

 さらに、若松さんを引用します。「利他とは個人が主体的に起こそうとして生起するものではない。それが他者によって用いられたときに現出する。利他とは、自他のあわいに起こる『出来事』だともいえます」(p.126)。

 

 私は他者を利するために他者と一つになろう、などと思ってしまうところには、利他は生じないのです。一つになろうとすれば、相手を自分の中に取り込んでしまい、自だけが残り、他は死んでしまいます。

 しかし「数量的な一を超えた、『一なるもの』」は、「一つになる」こととは違い、自は自、他は他のままで、それでいて、利他が働くあわい、間(あいだ)があるのでしょう。利他は、自の中でも、他の中でもなく、そのあわいに現れるのです。

 

 私にできることがあるとすれば、他と一つになろうなどとせず、むしろ、他とのあわいを持とうとすることではないでしょうか。「数量的な一を超えた、『一なるもの』」には、あわいがあるのです。あわいを用意しつつ、利他の訪れ、愛の到来を待つのです。

 

 利他を愛と言い変えるならば、愛は、自の中でも他の中でもなく自他の間に生じる超越者です。これを、神、あるいは、仏と言い表しても、的外れではないでしょう。

 

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