「宗教は人間の自己外在化の極致」「宗教とは宇宙全体を人間的に意味ある存在として想念する大胆な試みなのである」(p.56)。
宗教だけでなく社会は人間が自分の外に創り出したもの、とバーガーの社会学では見なされます。人間は、自分の生み出す宗教によって、自分の生きている世界に意味を見出そうとします。なぜ世界がここにあるのか、なぜ人間というものが存在するのか、人間は何のために生きるのか、生きているとどうして苦しいことや不条理なことが起こるのか。宗教はこうした人間の生きる「宇宙全体」、生きているすべての領域に意味を与えようとします。
「宗教は、それが実際の社会の不安定な現実構成を究極的存在に結びつけるからこそ、きわめて効果的に正当化を果たす。社会的世界のはかない現実は神聖な実在に根ざしており、その実在は規定上、人間の意味と人間の行為の偶発的な彼方にあるものなのである」(p.62)。
「究極的存在」「神聖な実在」とは、神のことです。人間の人生は、病気や貧困や事故や人間関係の破綻や暴力や災害や精神の混乱や思索の悩みなど不安定なもので満ちていますが、それを神と結びつけることによって、人間はそうしたことの意味を見出します。苦しくても、そこに神から与えられた意味や理由が見いだせれば、人間は生きていくことができます。宗教はそのために人間が創り出した「大胆な試み」なのです。
かつて世界の空間はそのような神のリアリティで満ちていました。しかし、近代化が進むにつれて、神のリアリティが減退し、世俗の空間が拡大していきます。
それに伴い、宗教も「世俗化、多元化および〈主観化〉」(p.294)した、とバーガーは述べます。
ぼく自身、自分の身を置くキリスト教以外の宗教も、あるいは、自分の慣れ親しんだものとは違うタイプのキリスト教も尊重しますし(多元化)、聖書の根幹と思われるメッセージ(無償の愛=アガペー、神がともにいる=インマヌエル)を信じつつも超自然現象についてはそのままあったというよりもそれが記されている意味の方を重視しますし(世俗化)が、「主観化」については疑問もあります。
宗教を制度やシステムと見なす場合、たしかに、人間が創り出したものであることは否定できませんが、人間は世界を意味付けしたがるだけでなく、人間は世界に「驚く」のではないでしょうか。
なぜ自分という命がここに存在するのか、その意味を問うだけでなく、自分という命が存在することに驚き、どうじに、この命の根源を予感する、つまり神を予感するのではないでしょうか。
この予感は、主観ではなく、あるいは、ゼロからの自分の思いではなく、根源という自分以外の存在、つまり、客観によって促された出来事なのではないでしょうか。
宗教そのものは社会学的現象であるとしても、その核には、社会学や人間の主観に還元できない非主観が存在するのではないでしょうか。