「言葉数を少なくすることで、暗がりのなかで蛍火のように点滅する詩もあるかもしれない」「今の夥しい言葉の氾濫に対して、小さくてもいいから詩の杭を打ちたいという気持ちがあった」(p.198)。
詩人はあとがきにこのように記しています。
「言葉の氾濫」への抗いは、詩でも言い表されています。
「文字で/読みたくない/声で/聞きたくない 言葉の/意味から/滲み出すものを/沈黙に探る」(p.62)。
人は言葉によって生かされますが、言葉によって殺されもします。
「言葉がつなぐ/いのち/断つ/いのち」(p.54)
聖書にも、「人はパンだけで生きるものではない。神の口から出る一つ一つの言葉で生きる」ともありますし、「文字は殺しますが、霊は生かします」ともあります。
言葉は、何かをなんとか言い表そうとしますが、その何かを言い表すことはできません。目に見えない大切な何かを表現しようとしますが、その何かを表現することができません。
「分別の/罪を/言葉は/負う」(p.58)。
「宇宙を/言語へと/貶める/無恥」(p.194)。
この詩集の中にも、言葉の美しさを語る言葉もありますが、言葉の限界を告白する言葉もあります。
言葉がそのぎりぎりの限界の中で言い表そうとするものは何でしょうか。
「気配が/ある/姿なく/いる気配」(p.14)。
「言葉にならないそれ/それと名指せない/それ/それがある」(p.46)。
それが言葉にならないのは語彙力、表現力不足のせいだけではありません。
「名づけてはならない/それを/惑わしてはいけない/言葉で」(p.47)。
それには畏怖があるのです。しかし、それは恐怖ではありません。
「遠く離れた/時と/所から/滲んでくる」(p.48)。
「決して/凍らない/小さな/泉」(p.49)。
それは、滲み出る泉、いのちなのです。
「言葉が/落としたものを/詩は拾う」(p.116)。
この詩集は拾ったでしょうか。
「理と知を/超えようと/あがく/言葉」(p.153)。
たしかに、詩人はあがいています。けれども、誰よりも美しく。
それは、
「いのちの/無言が/世界を鎮める」(p.197)
ことを知っているからでしょう。