531 「哲学のやさしさ」・・・「西田幾多郎『善の研究』(NHK100分de名著)」(若松英輔著、NHK出版、2019年)  

 

 哲学はやさしい。しかし、哲学は難しいと思われている。カタカナや漢字の抽象的な用語。用語と用語の間の複雑な結びつき。それらを述べる文章のわかりにくさ。

 

 西田幾多郎善の研究」も難読書と言われている。幾多郎の「幾」は幾何学を連想させるし、「善」は高尚過ぎるように感じられるし、「研究」は大学や学者を思い出させる。

 

 けれども、若松英輔さんの著したこの本はわかりやすかった、という評価が多い。その理由のひとつは、若松さんが、西田幾多郎の「数学的論理」「思想的論理」を「解説」するのではなく、むしろ、西田さんの「霊性」を追体験して、読者にそれを語っているからだと思う。

 「霊性」はオカルトや超常現象とは何の関係もない。「霊性」とは、この世界を創り今もあらしめている、世界の根本的な力へのわたしたちの予感のことであり、また、その力から送られてくる予感、あるいは、香りのことである。満天の星空を見上げ、薄紅の花に立ち止まるときに心に浮かんでくる神秘的な力との無言の会話のことである。

 西田さんが「善の研究」で追おうとしたものは、若松さんの本著ではさまざまに言い表されている。「究極的なもの」「彼方の世界」「世界の底」「人間を超えながら、同時に私たちの心に内在する」「内界と外界の双方の根本の『はたらき』」「有限的存在・・・を支えている『絶対無限』のちから」「仏性とは、万人のなかに存在する『仏』になろうとするはたらき」「根源のはたらき」「知り尽くすことができないもの」「知り得ないという経験を通じて深く認識される何か」「世界の深み」。

 西田さんの言葉では「大いなるはたらき」「宇宙の根本」「宇宙の根本であって兼ねて我らの根本」「自己の意識を破りて働く堂々たる宇宙精神」。

 この本を読み始めて、ぼくはキリスト教の本を読んでいるときと同じ感覚をもった。キリスト教では、目に見えない世界の根本のことを「神」と呼んでいる。

 

 キリスト教旧約聖書の創世記にこうある。「主なる神は、土の塵で人を形づくり、その鼻に命の息を吹き入れられた。人はこうして生きる者となった」。人間は目に見える物質だけからできているのではない。人間は神から「命の息」を吹き入れられて、生きる者となった。この「命の息」は「霊性」と呼んでもよいし、西田さんが追ったものと言っても、大きくは間違っていないかもしれない。

 新約聖書のマルコ福音書でイエスはこう言っている。「また、イエスは言われた。「神の国は次のようなものである。人が土に種を蒔いて、夜昼、寝起きしているうちに、種は芽を出して成長するが、どうしてそうなるのか、その人は知らない。土はひとりでに実を結ばせるのであり、まず茎、次に穂、そしてその穂には豊かな実ができる」。

 

 植物を成長させ、わたしたちを生かす力。イエスはそれを「神の国」と名付けた。「神の国」は「神の支配」さらには「神の力」と言い換えることもできるだろう。

 

 西田さんが慕い求めたものは、難解な思想でも論理でもなく、あんがい、この「神の力」にかなり近いものであったのではなかろうか。神の力は暴力ではない。むしろ、世界にいのちで満たそうとする優しい力だ。

 

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