宮澤賢治を主人公にした劇。イーハトーボは賢治の生きた岩手のエスペラント語表記。「列車」は「銀河鉄道の夜」に由来するのでしょう。
門井慶喜という小説家の直木賞受賞作「銀河鉄道の父」を先日読んで、さらに賢治関係を、という思いになりました。
門井さんの小説は映画化され、この(2023年の)5月に封切です。その予習もかねて、井上ひさしさんのこの戯作を30年ぶりくらいに手に取ってみました。死ぬまでに井上芝居をできるだけ再読したいとも思い始めた矢先でもありました。
「科学と宗教・・・このふたつのものの中間に文学がありました」(p.8)。
「科学も宗教も労働も芸能もみんな大切なもの。けれども、それらを手分けして受け持つのではなんにもならない」(p.9)。
賢治はこれらを分けないで持とうとしたマルチな存在でした。
ところで、わたしは最近、農村と都市というテーマに関心を持ち始めたのですが、そんなことは、井上ひさしさんが30年以上前に、そして、賢治が100年近く前に言っていたことなのでした。
「都会の主婦がテレビで『米は高い』といっているのをきいて、口惜しい・・・丼いっぱいの御飯の値段がわずかの三十円・・・そのくせ、美容院のセット代が二千円でも三千円でも、高いとはいわない・・・日本人は米がいらなくなったんだよ・・・必要じゃないから高いと思えて仕方がない。米を必要としないってことは、つまり日本人は農村を必要としない」(p.173)。
「兵隊と女郎と米、それから工員、これを村はいつも中央へ提供しておった」(p.174)。
これを読んで反省しました。地球環境が危ないというのは重大な事実ですが、だからと言って、では、都市住民のわたしが、農村に癒しやエコロジー感覚を押し付けるのは、上記の指摘の裏返しに他ならなりませんでした。
農村から搾取しない都市を考えなければならないのでした。