「農村伝道神学校」というところで、ぼくは学者でもないのに、非常勤講師をさせていただいています。担当クラスで学ぶことは、むろん、農にかかわるものではなく、キリスト教の基本的な信仰内容です。
それから、広島の山間部に移住して農にとりくんでいる友人らと、「農の神学研究会」というものをほそぼぞとやっています。
けれども、ぼくは農をほとんど知りません。親父は高等農林を出ており、ぼくは農学部中退ですが。
そういうわけで、この本を読むことにしました。知らない分野を学び始めるには、岩波ジュニア新書やちくまプリマ―新書がよいですね。
「農」は産業としての「農業」を含みますが、もっと広く深く根本的なものです。つながれたいのちの営みそのものに関わると言っても良いかもしれません。
この本のテーマのひとつは、まさに「いのち」ですが、「いのち」は「生きもの」のつながりであり、わたしたちは「食べもの」を通して「いのち」とつながる、つまり、「食べもの」は「生きもの」だと著者は言います。
食べものには香りがしますが、これは生きものの属性だと言うのです。
ごはん粒は「切り身ではなくまるごと姿をとどめた煮魚や貝汁の貝に似ている・・・それが生きていた時を想像させます」(p.53)。
農の作物は「害虫」と呼ばれる虫を含む多くの生きものたちとともに育っています。したがって、食卓にたどり着く米や野菜の食べ物はそれ以外の生きもののいのちも背負っている、と著者は言います。つまり、食べものは「生きもの」のつながりのあらわれであり、それゆえに「いのち」であると。
また、わたしたち人間も「生きもの」ですから、「生きもの」である「食べもの」を食べることは、「生きもの」と「生きもの」がつながること、つまり、「いのち」のつながりにあることだと。
「死は必ず生につながるからです。「死」は決して、悪いことばかりではありません。農耕では、「死」は決して、悪いことではありません。農耕では、「死」は「実り」のことでもあるからです。さらに「また会える」という生死の引きつぎは、農耕によって人間のものになりました」(p.94)。
「また会える」「生死の引きつぎ」はキリスト教の「復活」につながると思いました。もっとも、「復活」は人間の手によるものではありません。「また会える」も、人間の手によると言うよりは、「いのち」そのものの営みでありましょう。
「私は、食べもの(生きもの)を食べることは、その生きものと「また会おう」と約束することではないかと思っています。そしてその代わりに食べもの(生きもの)の「いのち」をいただくことではないかと思うのです」(p.123)。
「また会おう」と約束する。これは、わたしたち人間にもできることですね。
「天地自然のめぐみを、天地自然に対価を払うことなく、無償で受け取ってきたのが百姓なのですから、お礼にやるべきこと(責任・宿命)が出てきます。その責任は、今年田畑で会ったすべての生きものと、来年もまた会えるようにすることで果たすことができます」。
「来年もまた会える」ことも「天地自然のめぐみ」だと思いますが、人間はそれを妨げることがあってはならないと思います。
農水省の「みどりの食料システム戦略」に「農業も環境に負荷をかけない持続可能なものに転換しよう」とあるそうですが、著者にすれば、「「環境への負荷」とは、生きものの「いのち」を傷つけていること、また「持続可能」とは、「いのち」がちゃんと引きつがれること」(p.174)なのです。
「「農の原理」とは、生きとし生けるものの「いのち」を引きつぎ、次につなげることです」(p.176)。
これは、「農の神学」のヒント、聖書やキリスト教を農の観点から考えるヒントがあると思いました。