原著は1990年。
訳者によれば、ゼレは「著者の論旨は明快である。解放の神学の視点から、これらのキリスト教の中心的テーマ、基本概念を解き明かす」(p.298)。
ぼくが「解放の神学」と出会ったのが1980年代前半。
「解放の神学」は、第三世界(富める第一世界でもなく、共産圏の第二世界でもない、アジア、アフリカ、ラテンアメリカの貧しい国々)の抑圧された貧しい民衆の視点から、「解放」を鍵語として聖書を再解釈した神学。
ゼレもぼくも、この神学に惹かれた。けれども、ぼくにはうしろめたさもあった。ぼくは第三世界の民衆ではない。ゼレもそうではない。けれども、国家や組織に抑圧されそこからの解放を求めている側面はなきにしもあらず。ゼレは、さらに、女性という抑圧された性に属していた。
そのようなゼレが解放の神学をどのようにとらえていたのか。
「『地は主のもの』(詩編二四・一)という文では、多国籍企業所有者の支配が否認されている」(p.22)。
これは、第三世界の民衆の、解放の神学の視点、そのものだ。
「十八世紀に解放的に作用した歴史的・批判的な聖書学は、現代の活力あるキリスト教共同体にとってはもはや十分なものではない。かつてはパンであったものが、石となってしまったのである」(p.53)。
けれども、田川建三、荒井献の聖書学も、支配者の抑圧を暴き、それに抵抗する視点を提供してくれた。たしかに、共同体の神学にはならなかったけれども。
解放の神学を支えるキリスト教共同体では「コミットメント」という言葉が用いられた。これは、「参加」を意味する。
ゼレによれば、聖書学は「石」すなわち「聖書の説明」しか与えないが、解放の神学は「パン」すなわち「現代の闘いに必要な聖書の用い方」を与えてくれる。つまり、コミットメントを促すのだ。
「処女降誕のモチーフは不必要なものとされるではなく、解放闘争の中へ組み込まれている。決定的なことは、解放者は貧しい人々の間でこの世に生れたということである。ラテン・アメリカでは多くの人々が未婚の母から生れ、父親を知らない。保護や援助を当てにすることができないまま、子どもを生む若い女性がいるという状況がごく普通なのである」((p;67)。
「自由主義神学にとって処女降誕は、取り去ってしかるべき躓きの石である。解放の神学にとってそれは、一個のパンである」(p.68)。
この「石」と「パン」の話法は見事である。田川にも荒井にも、これは言えない。
「私たちは聖書を、隷属させようとするあらゆる束縛からの解放を目指す、正義の書物として読んでいる」(p.116)。
この読み方は、第三世界の民衆でないぼくにも有効である。ひとつは、ぼく自身が誰かを隷属させ束縛しているが、それを止め、相手を解放し、また、ぼくも抑圧者の座から解放されなければならない。さらに、ぼくも、組織、国家、非組織的であっても支配・被支配を内包する人間関係において、抑圧され、差別されているが、そこから解放されなければならない。聖書はその解放を目指している、という知らせは、力強い。
ゼレは言う。ルターは「神の前における義」を唱えるが、「しかし『神の義』は、物質的な肉体と地球全体に妥当する意向を意味している。地球が命の拒否、搾取、不義の場であることをやめることが、『神の義』の意味である。義認と聖化は互いに補完しあう」(p.143)。
つまり、神の義とぼくらの関係は、神から罪を赦してもらう「義認」だけでなく、神の正義に参与する「義化」をも意味すると言うのだ。
「イエスが、廷臣たちが皇帝へのお世辞に用いた『平和を実現する人』という言葉を、普通の人々に対して用い、その人たちに幸いであると言ったことは驚くべきことである。イエスのこの呼びかけを現在の言葉に翻訳すれば、次のようになる。『武器を持たない平和の女たちが、真直ぐに歩むように。彼女たちこそが神の子どもである』」(p.237)。
反戦、反軍は、第三世界だけでなく、どの世界においても、解放の課題、緊急最重大課題である。沖縄、ウクライナ、戦争憲法への改悪。抵抗しなければならない。どうしたらよいのか。
ラテン・アメリカの解放の神学発の「コミットメント」(compromiso)をゼレは次にように言い変える。
「ここで私は解放の神学のパラダイムに行き着いた。フェミニズム、ラテン・アメリカ、アフリカの神学のいずれであれ、その神の考えを特徴づけているのは、『必要とする』、頼られているという概念である。私たちが神を必要とするのと同じように、神は私たちを必要とされている。私たちが神を待っているのと同じように、神は私たちの出現を待っておられる。これもまた神秘主義の洞察である。神によって必要とされているということを理解したときに初めて、私たちは本当に解放的に考えることを学ぶ」(p.276)。
戦争、軍事をやめさせるためにはどうしたらよいのかわからない。けれども、分からないなりに取り組んでいる人びとがすでにいる。ぼくたちがそこに参与することで、つぎの人も参与しやすくなるのではないか。神は待っている。