登場人物が豪華。ぼくが名前を聞いたことのある人だけでも、ユスティノス、オリゲネス、アタナシオス、擬デイオニュシオス、アウグスティヌス、アンセルムス、ベルナルドゥス、トマス・アクィナス、エックハルト、オッカム、ウィクリフ、エラスムス、ルター、ツヴィングリ、カルヴァン、ミュンツァー、ウェスレー、シュライアマハー、ハルナック、トレルチ、シュヴァイツァー、バルト、ブルトマン、ティリッヒ、ボンヘッファー、モルトマン、パネンベルク、ヒック、ラーナー、キュング、二ーバー兄弟、ハワーワス、ラウシェンブッシュ、フィオレンツァ、コーン、グティエレス・・・
執筆陣が豪華。やはり、ぼくが名前を聞いたことのある人だけでも、芦名定道、榎本空、片柳榮一、金子晴勇、土井健司、福島揚、村上みか、森本あんり、山口里子、山本芳久・・・
テーマが豪華。やはり、やはり、ぼくが聞きかじったこともあるテーマだけでも、ロゴス・キリスト論、聖霊論、三位一体論、否定神学、ドナトゥス派論争、ペラギウス主義論争、神の存在論証、ドイツ神秘主義、聖書中心主義、キリスト者の自由、聖餐論争、ドイツ敬虔主義、福音のギリシャ化、ケリュグマ、実存的不安と勇気、高価な恵みとキリストへの服従、終末論と希望、宗教多元主義、社会の福音化、フェミニスト神学、黒人神学、解放の神学・・・
ついでに、参考文献の中に、共訳者として、林巌雄・・・これは、豪華ではないが。
各項目は、一人の神学者の著作の一節の引用(「命題」とはこのこと)、「はじめに」、神学者の「生涯」、「背景」、(「命題」の)「解題」、「文献」から成りたち、「命題」と「解題」のテーマが項目の題となっている。
これ一冊で、キリスト教史の時間軸に沿って、有名な神学者の有名なテーマを、ざっと追うことができる。組織神学の入門や復習によいだろう。また、ここから深めることもできるだろう。
「諸見解の相違や多様性を認めたうえで、神に向かって、より深い真理を求めるという、トマスやエックハルトにあった態度が失われ、自己の主張をいかに根拠づけ、相手を論駁するかという競争的で排他的な学問へとスコラ神学は大きく変質する」(p.67、阿部善彦)。
20世紀後半には多様性の価値が神学界のみならず世界中に浸透したかのように思われたが、20世紀末から、ふたたび排他性、独善性がのさばり始めたのは、歴史が繰り返すことの例であろうか。
「いずれの見解も、人間の言葉による信仰の事柄の説明であり、限界性と不完全性を免れない。そのことをわきまえず、自らの見解に固執し、議論を重ねることの無意味さをブツァーは説くのである」(p.106、村上みか)。
自分の見解に固執し、ただ相手を否定しようとするのなら、たしかに議論には意味がない。議論は、相手の考えを聞いて、自分が変わる可能性を秘めていなければならない。
「「聖書のみ」という基本命題も、杓子定規に、聖書だけが神の真理を独占的に記しているとか、他の書物は必要ないといった単純乱暴なことを述べているわけではない・・・「聖書のみ」とは、排他的な聖書絶対主義や、いわゆる逐語霊感論ではない・・・ルターは聖書を深く読むことを通して、聖書の中に神の真理が明瞭に記されていることを体験した・・・すなわち、「福音には神の義が掲示されている」というローマ書1章17節の言葉の中に、「神の義」とは人にとって「神の恵み(福音)」であるという真理を見出した」(p.123-124、江口再起)。
聖書信仰とは、いかやたこを食べない、女性は祈る時頭に物をかぶる、妻たちは教会で黙っている、といったことを守ることではなく、聖書から神の恵み、神の救いの知らせ=福音を受け取ることであろう。
「帝国と教会が一体となった西欧キリスト教世界において、神は地上の社会にいわば垂直に現臨する、永遠かつ絶対的な超越者として表象されるようになった。西欧世界はメシアの到来を待ち望んで苦悩する場所ではなく、キリストの栄光を教会のサクラメントを通して開示する場所となった。現存する社会秩序と来るべき神の国が緊張関係をなす闘争的な歴史理解を失われた。そしてそれに代わって、永遠なる超越者があらゆる時点に現臨するとする現在終末論が定着した。キリスト教は現実の政治社会構造に対して謙遜に同意する宗教となってしまったのである」(p.179、福嶋揚)。
抑圧者が抑圧をやめ、被抑圧者が解放され、そのことで抑圧者も解放される、そのような、神の解放に参与する水平の道を歩き続けなければならない。舟は灯台を目指す。しかし、灯台の光は、遠くの闇夜の舟に届いている。闇は舟乗りを苦しめるが、光はこの人を肯定している。同意すべきものは、むろん、今の不正な政治社会構造ではなく、光と肯定である。